(筆洗)先月、八十二歳で逝去した脳神経外科医のオリバー・サックスさんはある時 - 東京新聞(2015年9月25日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015092502000149.html
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先月、八十二歳で逝去した脳神経外科医のオリバー・サックスさんはある時、失語症を患う人たちの病棟で奇妙な光景を目にしたという。
元俳優で、巧みな話術で知られる米大統領の感動的な演説を聞きつつ、患者たちが大笑いしていたのだ。
彼らは言葉の意味そのものは理解できない。だからこそ声の調子や表情に敏感になる。心のこもった話なら驚くほど理解するし、不実はやすやすと見抜く。言葉が分からないから言葉ではだまされぬ彼らにとり、大統領の芝居じみた態度は悪い冗談だったのだ。
サックス先生はそこで、失語症とは逆に、論理的な言葉は理解できるが、声に込められた喜怒哀楽はつかめぬ音感失認症の女性が演説をどう聞いたかも確かめた。感情に訴える表現を受け付けなくなっていた彼女はこう評したそうだ。「説得力がないわね…なにか隠しごとがあるんだわ」(『妻を帽子とまちがえた男』)
そんな寓話(ぐうわ)のような話を思い出しながら、きのうの夕、安倍首相の会見を見た。身ぶりをまじえ、声に抑揚を付け「この三年で日本を覆っていたあの暗く重い、沈滞した空気は一掃することができました。日本はようやく、新しい朝を迎えることができました」と、首相は笑顔で語っていた。
さてサックス先生の患者たちが首相会見を見聞したら、どんな反応を見せたろうか。果たしてうなずいたか、どうか。