狙われた軍需都市・平塚 空襲の背景知り平和に生かせ:神奈川 - 東京新聞(2015年9月10日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150910/CK2015091002000193.html
http://megalodon.jp/2015-0910-1053-04/www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150910/CK2015091002000193.html

太平洋戦争末期、米軍の爆撃で三百人以上が亡くなったとされる平塚空襲。当時の平塚市は、海軍火薬廠を中心に航空機の関連産業などが集まる軍需都市だった。町工場があった住居区域も大きな被害を受けており、元市博物館長の土井浩さん(70)は「人口五万人あまりだった平塚が標的になった背景を知り、戦争とは何なのかを学ぶことは都市づくりや平和を考えるために必要」と話している。 (吉岡潤)
市史を長く研究している土井さんは戦後五十年前年の一九九四年に自費で米国を訪れ、平塚空襲をめぐる米国側の資料を集めた。米軍が平塚の実態を詳細に把握し、四五年七月十六〜十七日、空襲を実行した状況に精通する。
火薬廠の存在は空襲の理由の一つではあったが、土井さんによれば「砲火薬の生産力は落ちていた。それより市内に集まっていた航空機の生産、部品製造に関連する工場をたたくことが米軍の狙いだった」。特攻機「桜花」の製造工場があり、火薬廠ではロケット火薬を生産していた。加えて日本海軍の拠点だった横須賀との関係も密接で、食糧が備蓄されていた。規模は小さくとも、軍事戦略上の重要な都市と、米軍は位置付けていた。
空襲では、火薬廠などがあった工業区域以外の区域で、より大きく被害が広がった。
三七年時点で市内にあった百六十一工場のうち、工員数十人未満は百四十二工場で、五人未満は百十一工場。軍需都市は、住居区域や商業区域に点在する零細な工場を数多く交えて形作られていた。
「軍需工場に転換した町工場は耐火性もなかった。米国は日本の工業のあり方を調べて準備していた」
土井さんは語る。「空襲を受けたのは間違いなく悲劇だった。ただ、十のうち九までは被害から考えるにしても、平塚がどんな都市だったか、どう戦争に関わっていたかを忘れてはいけない。まちをつくるのは市民、住民だから」
そして続ける。「戦争では後方支援だから大丈夫なんてことはない。戦争をしなかった七十年を誇りに思わなければ、また同じ状況になる」