人間魚雷を育成していた終戦日 元海軍水雷学校軍医・稲垣元博さん(96) - 東京新聞(2015年8月27日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015082702000156.html
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「君のような若者が栄養失調で死んでいくのを私は毎日見てきた」。終戦間際、海軍水雷学校(神奈川県横須賀市)の軍医だった稲垣元博さん(96)は古い記憶をたどりながら語った。「狂気の時代だった。もうあんな経験はしたくないし、誰にもさせたくない」
太平洋戦争の敗色が強まった一九四四年、南方戦線では「玉砕」や「転進」が相次いで報じられ、マラリアデング熱赤痢などの病で倒れる将兵が続出した。軍医不足の緊急措置として、医大四年生は卒業を半年繰り上げられ、軍医になるよう命じられた。稲垣さんが入校したのは海軍の軍医学校だった。
銃剣術をはじめ訓練は厳しかった。下痢に悩まされる者も多かった。医務室に行っても、軍医からは「下痢なら何も食べなければ良い」とろくに診察もされなかった。
軍医学校の訓練期間は一年間だったが、ここでも半年卒業は繰り上げられた。職業軍人として軍医の道を選ぶか、潜水艦勤務をするか選択肢を提示された。海軍でずっと働くつもりはなく、潜水艦内で新米軍医が一人で手術までこなすことに不安もあった。陸上部隊でも構わないと言うと、配属先は水雷学校になった。
海軍なのに海で勤務した経験はないと、苦笑いした後、稲垣さんは表情を引き締めた。「海に出た同僚たちはサイパンや沖縄でみんな撃沈されてしまった。生きる選択肢はどこにあるかわからない」
水雷学校は、魚雷を発射する駆逐艦などの乗組員を養成する機関だったが、軍医の目から見た環境は劣悪極まりなかった。猛烈な訓練に加え、食料不足から食事はとても粗末だったという。下士官による若い水兵たちへの暴力も日常茶飯事だった。
医務室のベッドが空くことはなく、毎日、朝から晩まで診察が続いた。入隊時は元気だった若者が、栄養失調で痩せ細り、流行した赤痢などにかかって亡くなっていく姿を毎日のように見たという。
稲垣さんが衝撃を受けたのは、死んでいく若者が「お国のために…」と無念さを口にする姿だった。「私たちは小学校から徹底的に軍国教育を受けてきたから『お国のためになれなかった』という気持ちも分かる。でも、あんな姿で未来のある若者が死んでいくのは耐えられなかった」
厳しい環境に耐え抜いた若者も、乗艦した潜水艦が撃沈されて命を失ったり、人間魚雷「回天」などの特攻兵器の乗員となり、若い命を散らした者もいるという。本紙に投稿した句はこうした経験が基になっている。
終戦詔勅水雷学校の運動場で聞いた。
「やっと戦争が終わったという気持ちでしたか?」と稲垣さんに聞くと、「とんでもない。運動場にいた者は全員悔し涙を流し続けていたよ。『終わった』というよりも『終わってしまった』という気持ちしかなかった。でも、時間がたって冷静に思い返すと、あれだけの若者の死を傍観してきた僕も大戦犯ですよ」。
稲垣さんは戦後、都内で病院を開業した。戦時中から俳句を詠んでいる稲垣さんは、取材中にこんな句を詠んでくれた。<平和こそ人と國(くに)の宝です>。稲垣さんの話を聞かなければ、若い私の胸にこの一句が響くことはなかったと思う。