<千葉から語り継ぐ戦争>四街道・鹿放ケ丘開拓史がミュージカルに 市民ら170人出演:千葉 - 東京新聞(2015年8月26日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20150826/CK2015082602000183.html
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戦後、現在の四街道市にあった軍用地を開拓してできた鹿放ケ丘(ろっぽうがおか)の歴史を描く市民ミュージカル「少年がつくった街」が、二十九、三十両日、四街道市文化センターで上演される。開拓したのは、旧満州中国東北部)に行くはずだった十代の少年たち。食糧難のなか、少年たちが荒れ地を農地に変えた史実を伝えようと、市民ら百七十人が出演する。 (中山岳)
少年たちは戦前、茨城県内の「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍内原訓練所」の学校で学んでいた。満州に開拓に行くはずが、一九四五年八月の終戦で運命が変わった。
鹿放ケ丘は約二百六十ヘクタール余で、そこを含む約二千四百ヘクタールの地域は「下志津原(しもしづはら)」と呼ばれ、戦中は陸軍の射撃演習場や野戦砲兵学校があった。終戦後、一帯を農地に転用するため、四五年十二月までに訓練所にいた当時十四〜十七歳ほどの約百七十人が集められた。
「拓(ひら)く 鹿放ヶ丘開拓五十年史」によると、少年たちは集団生活しながら開拓を始めた。ササが生い茂り不発弾も埋まっていた土地はクワで耕すこともままならず、栄養失調で倒れる者も少なくなかったという。少年たちがヘビを捕まえて食べたり、稲毛海岸でくんだ海水で塩を作った逸話も残る。
軍隊で使っていたけん引車を開墾に転用し、収穫した小麦でパンを作って少しずつ生活が安定した。少年たちは家を建てて結婚し、街ができた。開拓に参加した約四十人が今も暮らす。
ミュージカルはこうした逸話を織りまぜながら、開拓の歴史を紹介。四街道市在住でこれまで二十本近くの作品を制作した沖雅子さん(67)が、住民から話を聞くなどして脚本を書き下ろした。沖さんは「戦争から今につながる鹿放ケ丘の歴史を、多くの人に知ってもらいたい」と話す。
プロの作曲家と演出家も参加し、四歳から八十九歳までの百七十人が出演する。今年四月から練習を重ね、二十曲以上を歌い、踊る。少年役の和洋女子大二年の小林佑花里さん(19)は「荒れ地をあきらめずに耕した少年たちのことを、少しでもお客に伝わるよう演じたい」と意気込んでいる。
作品は約二時間十五分。計三回公演し、二十九日は午後零時半と午後四時から、三十日は午後零時半から開演する。チケットは大人前売り千五百円(当日千八百円)、小中高生と障害者は千円。問い合わせは、四街道市文化センター=電043(423)1618=へ。