「生きとったんね」胸に 被爆逃れた12歳 高橋冨久子さん(82) - 東京新聞(2015年8月26日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015082602000140.html
http://megalodon.jp/2015-0826-0922-04/www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015082602000140.html

あの夏、地元の少女が憧れる県立広島第一高等女学校(県女)の一年生だった。
空襲による火災が広がるのを防ぐため、建物を強制的に壊す「建物疎開」の作業に追われる中、数少ない授業が楽しみだった。
原爆投下の前日の八月五日は、日曜だった。国語の宿題に取り掛かろうとした高橋さんは、辞書がないことに気付いた。数十キロ離れた親戚の家に疎開させた荷物に紛れ込んでいた。母と二人で取りに向かうが、午後一便しかない帰りのバスに乗り遅れた。その夜は親戚の家に泊まり、翌日は学校を休むことになった。
六日、登校して建物疎開に向かった県女の生徒と教員合わせて三百人が原爆によって死亡した。同級生で生き残ったのは、遠方の修練道場にいた生徒と当日学校を休んだ四十数人だけだった。
母と広島市内の自宅に戻ったのは原爆投下から二日後。変わり果てた灰色の軍都とは対照的に、空は驚くほどに青かった。爆心地から一・六キロにあった自宅は倒壊したが、父と姉二人は頑丈な造りの別棟の食堂にいて助かった。
二十五歳で結婚して上京した。亡くなった友人の法事への参列や遺族への献花を欠かさなかった。一九七〇年代後半、同級生の「むっちゃん」の三十三回忌に参列した時、彼女のお母さんと再会した。
「あなた、生きとったんね」。お母さんは震える声で手を握った。
たったひと言が重くのしかかった。「責められたわけじゃない。でも、親なら誰でも思うでしょう。なんで真面目に学校に行ったうちの子が死んだの、と。私が親ならそう思う」。その手を握り返せなかった。
みんなが生きた証しを残したい−。仲間と二人で遺族や生き残った友人のことを調べ始めた。二〇〇七年、遺族や関係者六十人以上の寄稿をまとめた冊子「平和への祈り」を出版、遺族に届けた。「あの子たちの思いを残さなくては、私たちは死ねないから」。その思いを胸に、句もつくり続けている。