あの歴史を後世に(4) 関係者の高齢化に危機感;茨城 - 東京新聞(2015年8月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20150816/CK2015081602000137.html
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◆元整備兵 高野 克己さん(87)
前線基地へ出発する特攻隊員を見送りに、滑走路の両脇に整備兵や飛行兵ら千人以上が整列した。一九四五年四月五日、筑波海軍航空隊(現笠間市)。当時十七歳の整備兵だった高野克己さん(87)=笠間市=は、隊員たちの近くに立っていた。
上官から別れの杯を受けると、二十人の特攻隊員はそれぞれの戦闘機へ。高野さんらは、離陸した機体が見えなくなるまで、帽子を振り続けた。死地に赴く隊員の心情を思うと、涙がこぼれ、ハンカチを握り締めていた。
出発した二十人のうち、十七人が翌日に沖縄で戦死したことは、戦後になって知った。高野さんは「五、六回、同じように出発を見送った。七十年もたつが、あの光景だけは昨日のことのように思い出せる」と語る。
「特攻隊員と整備兵は階級が違い、宿舎も別。交流はなかった」という。それでも出発直前の夜、隊員たちが夜通し騒いでいるのを見掛けた。「眠れないのを酒で紛らしているんだろう」と察した。
人ごととは思っていなかった。「戦争が続いていれば、本土決戦の特攻要員として使われたのは間違いない。特攻は、起死回生と考えたのだろうが、人命を全く無視した戦法だ」
戦後は県庁で勤務。現在は、元隊員や遺族らでつくる「筑波海軍航空隊友の会」の会長を務め、県立病院の敷地内に残る旧司令部庁舎の保存を訴えている。
友の会は九九年、旧司令部庁舎の近くに慰霊碑を建立した。全国に散らばった当時の会員は約百七十人。しかし今では、元隊員は九十歳前後になり、ほとんどが亡くなった。遺族は兄弟が多く、同様に高齢化が進む。兄弟の子どもでも七十代が増えた。会員は四分の一程度になり、慰霊祭の出席者も年々減っている。
会の存続が危ぶまれていた二〇一二年、旧司令部庁舎が、特攻隊を描いた映画「永遠のゼロ」のロケ地になった。地元有志らが保存を訴え、関連史料を展示する記念館として、期間限定で公開。これまで十万人以上が訪れた。
県は建物を解体する方針を撤回した。しかし、補強工事や記念館の存続など、具体的なことは何も決まっていない。
「見送った特攻隊員たちを考えれば、このままでいいはずがない。悲劇を伝承しなければいけない思いは強い」。友の会は当面、存続するが、高齢化で解散は避けられない。高野さんは、保存の道筋をつけることが、会の最後の使命と思っている。 (宮本隆康)