軍都の記憶(1) 反乱の厚木 緊迫の撤去作業:神奈川 - 東京新聞(2015年8月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150814/CK2015081402000173.html
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一九四五年八月十五日。玉音放送が流れると、第三〇二航空隊の小園安名大佐らは徹底抗戦を主張した。連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官のダグラス・マッカーサーが厚木飛行場から進駐することが決まっていたため、阻止しようと、滑走路上に約三百機もの戦闘機や機体を破壊した残骸を放置した。
手記などによると、四十四歳だった明さんは東京都在住で、土建会社の社長。「破天荒で、情が厚かった」という親分肌で、旧知の海軍大佐から戦闘機などの撤去作業を頼まれた。事前に国からの資金提供はなかったが、総勢約二百五十人の作業員を飛行場に集めた。小学生で疎開中だった真吾さんは、明さんが自宅の金庫から全財産を取り出し、作業員への支払金として飛行場へ向かったことを母から聞かされた。
二十五日の夜、反乱兵からの攻撃を警戒し、暗闇の中で明かりをともすことなく作業開始。「羽をもぎ取れ、脚を外せ」「気を付けろ、胴体が転がってくるぞ」。明さんや作業員らの怒声が飛び交った。土砂降りの中、重機で機体や残骸を次々と谷に落とした。
三十日、マッカーサーはコーンパイプをくわえ、厚木飛行場に悠然と降り立った。明さんが海軍から工事代金とともに贈られた感謝状には「終戦時連合軍の進駐に際し 厚木飛行場急速整備に付 多大の障碍(しょうがい)を克服し短時日に 之を完成したる異常の努力に対し茲(ここ)に感謝の意を表す」と書かれていた。
決死の作業を引き受けた明さんの心境について、真吾さんは「無血進駐できなかった場合、武力を伴った占領政策が予想された。武装解除できなかった天皇陛下の役割は低く評価され、裁判にかけられた揚げ句、天皇制を守れなくなる恐れがあると危機感を抱いたのだろう」と推察する。
四六年二月、マッカーサーは新憲法の「三原則」として、「天皇国家元首」「戦争と軍備の放棄」「封建制廃止」を示した。天皇制維持に向けて他の連合国を説得するため、憲法九条を抱き合わせにしたとされる。
「戦後、われわれが平和を享受できた原点は憲法九条と天皇制維持を盛り込んだ日本国憲法にある」と真吾さん。マッカーサーが無血で厚木飛行場に降り立てなかったら、新憲法は違ったものになっていたに違いないと考える。「この平和を守り続けるためにどうするか、国民一人一人が考える必要がある」 (寺岡秀樹)