あの歴史を後世に(2) 出撃者選び 苦悩の戦後:茨城 - 東京新聞(2015年8月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20150814/CK2015081402000183.html
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◆元教官 故林 富士夫さん
「おれは鉛筆一本で人を殺した」。筑波海軍航空隊(現笠間市)で一九四四年五月から教官を務めた故林富士夫さんは戦後、家族にこう話していた。前線で特攻の出撃者を選び、黒板に名前を書いていたことを振り返った言葉だった。
林さんは二〇〇九年、特別養護老人ホームに入所した。長男の多聞さん(58)が、埼玉県入間市の父の自宅を整理すると、ワープロフロッピーディスクに文章が保存されていた。題名は「自殺志願」。戦時中の体験が詳細に記されていた。
この文章によると、四四年六月、特攻機「桜花(おうか)」の開発に先立ち、志願者の有無を調べる会議が筑波航空隊で開かれた。林さんは三日間悩んだ後、「戦局を変えられる新兵器なら、海軍兵学校出身の自分が乗ろう」と志願した。しかし、完成した桜花を見て「詐欺のようだ」と落胆したという。
爆弾を積んだ桜花を、母機がつるして敵艦に近づき、空中で切り離した後、操縦桿(かん)で機体を操りながら落下し、体当たりを試みる。林さんが懸念した通り、近づく前に母機ごと撃墜されることが多かったとされる。
林さんは四五年三月から約三カ月間、鹿児島県の鹿屋基地で、桜花など特攻主体の部隊に所属した。二十三歳の分隊長として、隊内から出撃者を選ぶよう命じられた。真っ先に自分の名前を書いたが、却下された。ひいきと思われないよう、親友や近しい部下たちを出撃させた。
「全員が晴れ晴れした顔で出撃し、余計につらかった。飛行場の端の草むらで泣いた。あんな立派な態度で自分は行けるのかと悩んだ」と、当時の心境をつづった。出撃直前に先輩から「特攻なんてぶっつぶしてくれ」と頼まれたこと、「自分は部下を無駄に殺しているのではないか」と悩んだことも書かれていた。
戦後は、自衛隊などに勤務した。退職した八二年から鹿屋の追悼式典に毎年出席し、生存者代表としてあいさつをした。元部下らの遺族を全国行脚し、筑波海軍航空隊の記念碑建立も実現させた。
「成果を上げられる見込みがないのに、部下を送り出した責任を感じていた。ずっと罪の意識があり、慰霊活動をしていたのだろう」と多聞さんは思う。
林さんは今年六月、九十三歳で亡くなった。「百二十歳まで生きたい。自分が生きている限り、仲間は自分の中で生きている。仲間のことを語り継ぐ責任がある」と語り、戦友が死んだ沖縄の海に遺骨をまいてもらうことを願っていた。
老人ホームに入った頃から認知症が悪化。記憶が薄れ、会話が成り立たない時間が増えていった。若い時からあった眉間のしわは、いつの間にか消えていた。多聞さんは「父は認知症になって初めて、戦争のつらい記憶から解放された」と考えている。 (宮本隆康)