戦後70年 語り継ぐ(上)旧陸軍高萩飛行場(日高市) よみがえる苦難の記憶:埼玉 - 東京新聞(2015年8月13日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150813/CK2015081302000187.html
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「戦時中、この地区全体が陸軍の飛行場でした。航空士官学校の生徒が『赤トンボ』と呼ばれる練習用の飛行機を操縦していたんです」。日高市旭ケ丘地区で暮らす横田八郎さん(84)は、七十年前に旧陸軍の「高萩(たかはぎ)飛行場」から始まったつらい記憶を口にした。
かつて山林が広がっていた旭ケ丘地区。一九三〇年以降、北海道などからの移住者が開拓して農地になったが、三七年に日中戦争が始まると、地区全体が旧日本軍に接収された。翌三八年に陸軍航空士官学校が旧豊岡町(現入間市)に設立された後、分教場(分校)の一つとして整備されたのが高萩飛行場だ。
近くの田木地区で生まれ育った横田さんは終戦直前の四五年四月、十四歳で航空士官学校に見習工として採用され、高萩飛行場に配属された。天気図を作る仕事に携わり、わずか二週間後だった。兵士らとともに旧満州中国東北部)に移るよう、命じられた。
汽車と船に乗ってたどり着いたのは、旧満州東北部の杏樹(きょうじゅ)の基地だった。八月上旬に旧ソ連軍の侵攻が始まると、満蒙(まんもう)開拓団の人たちが助けを求めて基地にやってきた。だが、この場にとどまれば危険が大きい。横田さんらは基地を離れ内陸に向かったが、「途中でソ連軍の祝勝花火を見て、日本の敗戦を知った」という。
横田さんの所属部隊は旧満州南部で旧ソ連軍に武装解除された。兵士ではなく軍属の横田さんは捕虜にはならなかったが、飢えと病に苦しむ毎日が始まった。避難先の学校で仲間の一人が亡くなった。「体に付いたシラミがぞろぞろと離れ、おかしいと思っていたら、翌朝に息を引き取った」。ほかの部隊も含め毎日のように死者が出た。
十二月に中国共産党系の「八路軍」(後に人民解放軍に改編)に入り、銃の整備などの仕事をした。「生き延びるため」だった。翌年十月に「帰国できる」との知らせがもたらされ、二カ月後に自宅に戻った。
横田さんはほかの住民や復員兵らとともに、飛行場の跡地を農地に戻す開拓団に参加した。その縁で旭ケ丘地区に転居し、農業を始めた。七六年から旧日高町(現日高市)の教育委員会に職員として勤め、九一年に定年退職した。
そして二〇〇八年。横田さんら地元住民は、飛行場の歴史を刻んだ石碑を旭ケ丘神社前に建てた。「飛行場があったことは、今の旭ケ丘を見ても分からない。時間がたち、当時を知る人もほとんどいなくなった。ここに飛行場があった事実を後世に伝え、平和の大切さを知ってもらいたいとの思いを込めた」
そう語る横田さんは、戦争体験の一つ一つを俳句に詠んできた。
春四月軍国少年勇み立つ
釜山から博多へと着く十二月
「子どもも女性も、あらゆる人を巻き込むのが戦争だ。その悲劇を繰り返してはならない」 (服部展和)
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間もなく「戦後70年」を迎える。県内にあった軍事施設の当時を知る人たちの証言を通じ、平和の尊さを考える。