(筆洗)♪見よ 東海の空明けて 旭日高く輝けば… - 東京新聞(2015年8月7日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015080702000136.html
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♪見よ 東海の空明けて 旭日高く輝けば…。国威発揚の歌「愛国行進曲」が大流行していたころ、十代の文学少年だった阿川弘之さんはレコード屋で、「こんなものすぐすたるよ」と言い放って、店員に「そんなら私が一人ででも、未来永遠に歌うてみせたげる」と言い返されたそうだ。
阿川さんは大戦果を祝う提灯(ちょうちん)行列に参加するよう言われてもすっぽかし、学友に「非国民」と言われるような若者だったが、大学を出て海軍に入った。そして生きて故国に帰ると、小説を書き始める。
なぜ無謀な戦争を止めることができなかったのか。なぜ同世代の若者は死んでいったのか。文学志望の青年が特攻隊員となる姿を描いた『雲の墓標』や、海軍提督の伝記三部作など、戦争を主題にした作品を世に問い続けた。
それは戦後、手のひらを返すように、「戦争の歌」を忘れ去ろうとした世の中に対し、「私一人でも、未来永遠に歌ってみせる」ような営みだったのかもしれない。
阿川さんが少年時代から敬愛し続け、戦後はじかに教えを受けた志賀直哉は遺言に「名を残す事は望まず」と記したそうだ。「紀念碑の類は一切断る事、名は残す要なし、作品の小さな断片でも後人の間に残つてくれゝば嬉(うれ)しい」。
この師の遺言に倣(なら)いたいと阿川さんは願っていたという。戦争の重い「断片」を私たちに残し、作家は九十四歳で逝った。