抑留に消えた青春 満蒙開拓軍 生還2氏、詩歌に - 東京新聞(2015年7月4日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015070402000253.html
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昭和前期、旧満州中国東北部)の開拓と治安維持のため、日本政府によって現地に送り込まれた十代半ばの少年たちがいた。名は「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」。旧満州からの帰還者が多く入植した栃木県那須町では、苦難を生き延びた人々が今も暮らす。生存者たちは当時の思いを俳句や短歌に託し、たとえ青少年であっても等しく敵とみなされる戦争の過酷さを、戦後七十年の現代に鋭く突きつけている。 (大野暢子)
<十字架の傾く丘や時雨(しぐれ)けり>
那須町で農業を営む元義勇軍の玉田貞喜(さだき)さん(88)は、戦後に抑留されたシベリアの密林に、当時十九歳だった親友の遺体を埋めた。「埋葬場所の近くに雨に煙る墓地が見え、この俳句が浮かんだんだ」と遠くを見つめる。
親友は義勇軍の同期生で、同郷の熊本県出身。体格の大きな明るい青年だった。捕虜として一緒に労働に従事させられている間も、「早く熊本に帰りたいな」と励まし合った。
森林での伐採作業中、親友が切り倒そうとしていた木が突然、予期せぬ方向へ倒れた。木に直撃された親友は、のどに大きな内出血をつくり、動かなくなった。玉田さんは涙をこらえて彼の死をソ連側に伝え、密林の中に掘った穴へ埋め、野花を手向けた。
不衛生な収容所はシラミを介した感染症がまん延し、体を真っ赤に腫らして死んでいった友人もいた。「いずれの仲間も抑留死者の名簿にさえ載っていない。若くして戦争に利用され、国から見捨てられたのです」。十四〜二十三歳にかけて、旧満州、シベリアで味わった苦難を俳句や短歌とともに自伝にまとめ、近親者らに配り続けている。
故郷の長野県から十四歳で義勇軍に入った那須町の会社経営、今村真(まこと)さん(90)は敗戦時、ソ連の侵攻から逃れた人々を汽車で護送した。今村さんらは治安維持に当たるよう厳命され、帰国を許されなかった。護送したのはほとんどが軍の家族で、取り残された開拓者の多くが犠牲になったことを知ったのは、ずっと後だった。
その後、ソ連の捕虜として通訳や食料調達の任務に就いた。万年雪を頂く天山山脈を指さしたソ連兵に、「あの雪が解けたらダモイ(帰国)だ」と笑われ、「ここで死ねということか」と覚悟した。ようやく帰国が許された時には、二十四歳になっていた。
帰国後、短歌を本格的に始め、抑留体験を題材にするようになった。
<司令部は家族をさきに送還す 残されし邦人すべて難民>
<天山の雪解ければダモイあり 標高五〇〇〇雪解けありや>
書や自伝にしたため、戦争の勉強会などで精力的に発表している。
九十歳の今も歩みを止められない理由に、最近の日本に漂う不穏な空気がある。他国の戦争に参加する集団的自衛権の行使を目指す現政権に、日ごとに違和感を募らせる。
「戦力のない義勇軍や開拓民も他国にとっては敵だった。そんな戦争の常識を知らない連中が、戦争に参加しようとしているんだ」
<満蒙開拓青少年義勇軍 日本は1932年、国際社会の反対を押し切り、実質的に統治する満州国を建国。現地で開拓の精鋭を育成するという名目で義勇軍を創設し、貧しい農村の次男や三男らを対象に「広大な土地で農場主になれる」などと勧誘した。全国の学校などで大規模な募集を展開し、約8万6000人が現地へ渡った。45年8月にソ連が旧満州に侵攻すると、多くがシベリアに連行されるなどし、2万人超が死亡したとされる。