語り継ぐ(下)長崎原爆 目の前の惨状 感情湧かず:埼玉 - (2015年7月3日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150703/CK2015070302000164.html
http://megalodon.jp/2015-0703-0924-08/www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150703/CK2015070302000164.html

◆田中 熙巳(てるみさん)(83)
「突然、辺りが真っ白になった。無我夢中で階段を下りて伏せた瞬間、気を失った」。一九四五年八月九日、長崎市の自宅で被爆した田中熙巳(てるみ)さん(83)=新座市=は、中学一年生だった当時の記憶を口にした。
その日は朝から警戒警報と空襲警報が発令され、学校に行けずに二階の部屋にいた。何げなく窓から空を見上げて振り返ったとき、周囲が一変した。午前十一時二分。「ガラガラ」「ザ、ザ、ザー」。閃光(せんこう)からわずかに遅れ、大きな音がして衝撃波が襲ってきた。人類史上二度目の原爆投下だった。
「てるみちゃーん、てるみちゃーん」。名前を呼ぶ母の声で意識を取り戻した。体にかぶさる二枚のガラス戸を押しのけ、家族の無事を確認した。なぜかガラスは割れていなかった。「命があったのは奇跡」と今も思う。
外に出ると、大柄な男性が道の向こうから近づいてくるのが見えた。全身が膨れ上がり、皮膚は黒っぽいほこりで覆われていた。母校の小学校にできた救護所には、すすにまみれた大勢の人たちが運ばれてきた。「寒いよ」「お母さん」。あちこちから聞こえるうめき声は、次第に小さくなった。目の前の出来事を現実と受け止められず、感情は湧いてこなかった。
その三日後。自宅から三・二キロ離れた爆心地に足を運んだ。疎開中の親類の二家族を捜すためだった。一面のがれきの中に黒焦げの遺体が散乱していた。親類五人も犠牲になった。おばの遺体をその場で荼毘(だび)に付し、焼かれた骨を目にした時、優しかったおばの姿を思い出し、泣きくずれた。「それまで失っていた感情が噴き出した。この時のことは忘れられない」
六〇年に東北大工学部の助手になった。研究の傍ら七〇年代初めに被爆者団体の運動に携わるように。七七年に広島で開かれた原水爆禁止日本協議会原水協)と原水爆禁止日本国民会議原水禁)の統一世界大会で、田中さんは初めて被爆体験を語った。
翌七八年の第一回国連軍縮特別総会に参加して以来、全国の被爆者とともに核兵器の恐ろしさと廃絶を訴える機会が増えた。二〇〇〇年に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の事務局長に就任。今年五月に米ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議では「核兵器は人類の発明であり、人類の知恵で廃絶できる」と力説した。
あの日から間もなく七十年。核兵器の真実を世界に証言できる被爆者は、年々少なくなっていく。「私たちに残された時間は少ない。一度に何万人もの命を奪い、生き残った人をも苦しめ続ける兵器の存在を許してはいけない。世界の人が力を合わせ、一刻も早く廃絶させなければならない」 (服部展和)