旧満州開拓団の体験つづる 秩父在住・高橋さんが回顧録:埼玉 - 東京新聞(2015年6月30日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150630/CK2015063002000152.html
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秩父市在住の高橋章さん(80)が、終戦直後の旧満州中国東北部)開拓団での体験をつづった回顧録自費出版した。国策に従って現地に渡り、終戦とともに住む土地を追われ、現地の住民を襲ったという。「被害者でも加害者でもあった」と振り返る高橋さんは「自分は生まれて幸せなのか、不幸なのかと自問する日々だ。こんな思いを抱くに至った経験を知って、戦争を繰り返さないという思いを強くしてほしい」と訴えている。 (羽物一隆)
高橋さんは、秩父町(現秩父市)で秩父銘仙の染織の仕事を手掛ける一家に生まれた。戦争が始まると染料が入手できなくなり、一九四三年、一家七人で中川村(同)開拓団の一員として旧満州に渡った。高橋さんは八歳だった。
現地では不慣れな農業に苦労する人が多かった。四五年七月には各世帯の大半の戸主が徴兵され、開拓団は事実上崩壊。そして八月十五日の終戦を迎えた。
農地で働かされていた中国人が蜂起し、開拓団の集落を襲撃した。生き残った団員は襲撃を恐れて逃避行を始め、中国人の集落を先に襲うこともあったという。銃弾を運ぶ役目を担った高橋さんは、中国人の女性や子どもの遺体を目の当たりにし、命乞いをする老夫婦が刺し殺されたのも目撃した。一方、日本人側でも開拓団幹部に「足手まといになる」と言われ、母親が二歳の子の首を絞めることもあった。
高橋さんは九月三日に旧ソ連軍に拘束された後、「生きるために八路軍中国共産党軍)に参加した」という。炭鉱労働やバス運転手を経て五八年に帰国を果たした。だが、終戦直後の旧満州の日々は頭の中に鮮明に残り、「なぜ開拓団として行かなければならなかったのか」との疑問が強くなっていった。
調べた結果、養蚕が主要産業だった中川村は昭和恐慌後の生糸暴落で財政が破綻し、財政援助を受けるため国策の開拓に参加せざるを得なかったことが分かった。入植地に割り当てられた場所は反日感情の強い地域に近く、高橋さんは「武装移民として戦争遂行の国策に巻き込まれた」と確信するようになった。
十二年前に秩父に戻り、旧満州での体験を語り継ぐ活動を始め、初めて本にまとめた。安倍晋三政権が安全保障政策を転換させようとしている現状に危機感を覚えて決心したという。高橋さんは「『日本を取り戻す』と言うが、当時の道に戻ってはいけない。戦争をする準備でなく、避ける努力をしてほしいとの思いで書いた」と話す。
本は「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」(A5判百二十七ページ、千八十円)。問い合わせは、高橋さん方=電0494(24)8915=へ。