<戦後70年 いま茨城で伝える> 下館飛行場跡:茨城 - 東京新聞(2015年6月29日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20150629/CK2015062902000159.html
http://megalodon.jp/2015-0629-1558-00/www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20150629/CK2015062902000159.html

終戦翌年の一九四六年一月十五日。少年飛行兵の訓練基地だった下館飛行場(筑西市)のグラウンドは、荒れた原野となっていた。小高い丘に残っていた朝礼台。近くに、日の丸を掲げていたポールが、天を突くように立っていた。
当時四歳だった柳島紀雄さん(74)は、初めて目にした新天地の風景を鮮明に覚えている。弟二人と両親の一家五人。東京から疎開していた愛知県の母親の実家から、開拓地となった飛行場跡に「第一期生」として入植した。
一世帯に割り振られた土地は、耕作地も含め一・二ヘクタール。踏みしめられた芝が広がっていた。やせ細り、作物が育たない。栽培した陸稲は、水稲に比べわずか十分の一の収量だった。
「草や落ち葉を堆肥にしようと、近くの山に出掛けた。入植者たちはみな同じことを考えて、草一本残っていなかった」
住まいは兵舎跡。共同浴場は、日中見れば入るのをためらうほど汚れていた。土地を手に入れ喜んでいた父親は数年後、親類を頼って東京へ。商家育ちの母親は、畑仕事を嫌った。入植後に生まれた妹も含め、残された家族五人の大黒柱となって働くしかなかった。
学校には、ほとんど登校していない。入植者には同じ境遇の子どもが多く、放課後、校内の宿直室で担任教諭がそろばんや算数を教えてくれた。小学校の思い出は、宿直室しか浮かばない。最高のごちそうは、大人の手の親指を一回り大きくしたほどのふかしたサツマイモ。年に一回、誕生日に食卓に載った。
「畑仕事ができない雨の日は日雇いの工事現場へ。中学校を卒業してからは、冬は県外に出稼ぎに行った。時代にほんろうされ続けた」。振り返ると、苦難の連続だった。
   ×    ×
飛行場跡近くに住む大和田清さん(75)は、地域の歴史発掘に取り組んでいる。高齢の入植者や、戦時中の様子を知る人らを訪ね、丹念に当時の話を聞いている。「下館飛行場の存在が、忘れ去られようとしている」。こんな思いからだ。
「赤とんぼ」と呼ばれたベニヤ製の練習機は、民家の軒先にも、度々墜落した。訓練中、プロペラに巻き込まれて亡くなった人も。特攻隊として飛び立った若い飛行兵を招き、すき焼きをごちそうして送り出した旅館もあった。戦後に苦労した柳島さんの話には、胸がつまった。「筑西は大きな戦禍はなかった。しかし、戦争に巻き込まれた人たちの歴史が確かにあった」
   ×    ×
入植者の中には、半年から一年で開拓地を離れた人も多い。追加募集もあった。全国から集まった一期生は計六十七世帯。南北に貫いていた滑走路は、道路となって「飛行場通り」と名付けられた。両脇には閑静な住宅地が広がり、開拓地には現在、約三百世帯が暮らす。
かつて武運長久を祈って建立された靖空(せいくう)神社は、飛行場通り沿いに静かにたたずむ。境内には「拓魂」と記された開拓者たちの記念碑が立つ。幼いながら一家を支え続けた柳島さんの名前も、一期生たちと並んで刻まれている。 (原田拓哉)
<下館飛行場> 1939年、旧陸軍の熊谷陸軍飛行学校の分教場として設けられた。南北に1600メートルの滑走路があり、当初は下士官候補生の訓練が行われていた。後に、宇都宮陸軍飛行学校の分校となり、少年飛行兵の訓練基地に。太平洋戦争末期には、戦闘機「疾風(はやて)」が配備され、特攻隊も飛び立った。終戦後、開拓地になり、農地として外地からの引き揚げ家族や、復員兵などに払い下げられた。