安保転換を問う 政府の反論書 やはり「違憲法案」だ - 毎日新聞(2015年6月11日)

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憲法違反の疑いがある法案を数の力で強引に押し通せば、国の土台が揺らぎかねない。憲法は、国家権力を縛るものだという立憲主義の精神にも反する。憲法学者3人が国会で、集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法案は「憲法違反」だと指摘したことは、こんな根本的な問題を改めて突きつけている。
政府は、憲法学者の指摘に反論し、安全保障関連法案は合憲だとする見解をまとめた。「これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性および法的安定性は保たれている」としている。だが見解は、基本的に昨年7月の閣議決定文を焼き直した内容に過ぎず、論理が通っていない。
◇法体系の信頼揺るがす
見解は、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈変更について、憲法9条のもとでも「自衛の措置」が認められるなどとする1972年の政府見解の基本的論理を維持したまま、安全保障環境の変化を理由に「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」としていた結論について、認識を改めたと説明している。
つまり、他国への武力攻撃でも、存立危機事態など武力行使の新3要件を満たせば「わが国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合」に集団的自衛権を行使できるとした。
同じ基本的論理をもとにしながら、安全保障環境が変わったからという理由で、結論を集団的自衛権の行使は「できない」から「できる」にひっくり返している。これで論理的整合性が保たれているとはとても言えない。
憲法98条は、憲法は国の最高法規であって、憲法に反する法律は無効だと定めている。99条は、政府や国会議員に憲法を尊重し擁護する義務を負わせている。政府が憲法解釈の変更を全くしてはいけないというわけではないが、変更は決して恣意(しい)的であってはならず、過去の憲法解釈との論理的整合性が取れていなければならない。
そうでなければ憲法は規範性を失い、国民から信頼されなくなる。論理的整合性を超えて解釈変更が必要というのなら、憲法改正を国民に問わなければならない。
中谷元防衛相は衆院の特別委員会で、将来的に安全保障環境が変われば、解釈が再変更される可能性があるとの認識を示した。憲法をあまりに軽視している。
政府が、国際法上の集団的自衛権一般ではなく、限定的な集団的自衛権の行使だから認められる、と言っていることも、うのみにできない。
集団的自衛権行使の新3要件は基準があいまいだ。限定がかかるかどうかは時の政府の裁量による。
政府見解は、憲法解釈変更の基本的論理は、59年の砂川事件最高裁判決と「軌を一にするものだ」とも強調している。憲法学者違憲と指摘しても、憲法の最終的な解釈権は最高裁にあると言いたいのだろう。
だが判決は、集団的自衛権を認めたものではない。砂川判決を曲解すべきでない。
◇個別的自衛権でできる
安倍晋三首相は「切れ目のない備えを行う法整備が、日本人の命を守るために不可欠」というが、そのためになぜ集団的自衛権の行使が必要なのかという論理的な説明はない。
沖縄県尖閣諸島の防衛は、集団的自衛権ではなく個別的自衛権にもとづくものだ。北朝鮮情勢もほとんどが個別的自衛権の解釈の範囲で対応できるのではないか。集団的自衛権の行使を認める法案を夏までに急いで成立させる必要があるというなら、なぜその代表例が中東・ホルムズ海峡での機雷掃海と邦人輸送中の米艦防護なのか、納得がいかない。
安倍政権は、個別的自衛権の拡大解釈は他国から信頼されないというが、理屈をねじ曲げて憲法を政権に都合よく解釈するほうが、よほど法体系への信頼を傷つける。
解釈変更に賛成する側からは、憲法を守って国が滅びてもいいのかといった、極端な議論も聞こえてくる。しかし、憲法の安定性を損なうことこそ、国家運営のリスクになる。まして自衛隊という実力組織の運用に関する根本原理を軽々に変更すべきではない。