焦土の中で 横浜大空襲70年(2) 被害にあった華僑:神奈川 - 東京新聞(2015年5月31日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150531/CK2015053102000138.html
http://megalodon.jp/2015-0531-1209-13/www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150531/CK2015053102000138.html

<戦時下の外国人> 横浜大空襲に遭った外国人の数は分かっていない。ただ、かなりの数の外国人が県内にいたことが、県や内務省の調査に残されており、大半が横浜市に住んでいたとみられる。
終戦時の1945年8月15日時点で県内にいた外国人の内訳は、中国人1922人(満州含む)、ドイツ人768人、イタリア人61人、ビルマ(現ミャンマー)人71人、タイ人40人。日本と同盟を結んでいた国や、アジア系の人が目立つ。
中国人は、日中戦争開戦(1937年)前は3747人いたが、同年の上海事変を機に1500人程度が帰国した。しかし、日本のかいらい政権「南京国民政府」があり、敵国とは見なされず、在日2世の多くは横浜にとどまった。
空襲で、木造家屋が多かった中華街は焼け野原になった。焼け出された華僑のうち、裕福な人たちは箱根や軽井沢(長野県)に避難。ほかの人たちは、日本人と同じようにバラック防空壕で生活した。
一方、敵国だった米国人は13人、英国人も9人が県内におり、このうち成人男性は収容所に入れられていた。「朝鮮と神奈川」(1994年)によると、朝鮮人は軍需工場などで徴用され、44年の時点で6万2197人いた。この数は、39年の3倍に上った。