(筆洗)この人の瞳に、沖縄の青い海とまぶしい空は、どう映っていたのだろう。-東京新聞(2015年1月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015010602000112.html
http://megalodon.jp/2015-0106-1134-15/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015010602000112.html

この人の瞳に、沖縄の青い海とまぶしい空は、どう映っていたのだろう。おとといの朝刊に小さく載った訃報を読み返しながら、そんなことを考えた。大みそかの朝、那覇市内の病院で八十六歳で逝った宮城喜久子さんの訃報である。
宮城さんは、沖縄の第一高等女学校と師範学校女子部の生徒で組織された「ひめゆり学徒隊」の一員だった。七十年前の春、野戦病院に動員された「ひめゆり」の少女たちは、手足をもがれ、絶叫する兵士らであふれた病院でも、御国のためにと愚痴も言わず働き続けた。
動員された生徒は二百二十二人。うち百二十三人が戦死した。十六歳の宮城さんも学友らとともに沖縄本島南端の浜辺まで追い詰められた。死を目前に級友らが口にした言葉を、宮城さんは自著『ひめゆりの少女』に書き残している。
「もう一度、お母さんの顔が見たい」「もう一度、弾の落ちて来ない空の下を、大手を振って歩きたい」。その浜辺で落命した少女は三つ編み姿のままで、白骨になっていたそうだ。
宮城さんは戦後、教員となったが、海辺で遊ぶ教え子たちを見ると、浜辺で恐怖で震えていた学友たちの姿が思い出されてしかたなかったという。
「もう一度」と言いつつ死んでいった友の声を、「ひめゆり」の語り部として伝え続けた宮城さんの目に、戦後七十年を迎える日本の姿は、どう見えていたろうか。