菅原文太さん、晩年は農業や環境・平和運動に-朝日新聞(2014年12月2日)

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菅原文太さんの葬儀は11月30日、家族葬として太宰府天満宮(福岡県太宰府市)で営まれた。2001年に東京都内で事故で亡くなった長男の遺骨も納められており、菅原さんは年に数回お参りしていたという。
特集:菅原文太さん
卒業した仙台一高の新聞部の1年後輩に故・井上ひさしさんがいる。中高と一緒だった宮城県栗原市の旧栗駒町長、三浦弘彰さん(81)は「当時から豪放磊落(ごうほうらいらく)な男だった。大学時代、新宿の屋台で酒を飲んで三鷹の文太の家まで歩いて帰ったこともある」と振り返る。「仲間がみな亡くなってゆく。残念の一言です」

ルポライター鎌田慧さん(76)は3年ほど前、ラジオ番組で菅原さんと対談して驚いた。手元のノートには鎌田さんに関する情報がびっしりと書いてあった。「相手のことを調べて対談に臨む人。映画の役と違い、きちょうめんで勉強家なんだと思った」

晩年の職業は「農業」になった。都会を離れ、山梨県北杜(ほくと)市で農薬や化学肥料を使わずにトウガラシやサツマイモを栽培。岐阜県高山市の別荘を紹介し、自然保護活動を通じて20年以上のつきあいのある稲本正さん(69)は「日本の森が荒れ始めたらだめだ」と繰り返す姿を覚えている。平和への関心は高く、東日本大震災を機に反原発の思いも強めた。

九条の会」事務局長を務める小森陽一・東大教授(61)は憲法をめぐる活動で何度か会う機会があった。「人間は植物や昆虫と一緒なんだ。人間だけがおごるのは違う」という言葉が印象に残る。

11月の沖縄県知事選でも、翁長雄志氏(64)の応援に駆けつけていた。「政治の役割は二つ。国民を飢えさせないことと、絶対に戦争をしないこと」。那覇市の野球場であった集会で、米軍普天間飛行場辺野古移設強行に異を唱えた。集会から1カ月になる1日に、悲報が届いた。

岡山県美作市の作家、あさのあつこさんは「『トラック野郎』の豪快なイメージがあったが、物静かで知的な人だった。年を経ていくすてきさを感じさせる方だった」と語った。あさのさん原作の映画「バッテリー」(2007年公開)で、菅原さんが主人公の中学生投手の祖父役を演じた。

堺市にある特別養護老人ホーム「故郷の家」を運営する社会福祉法人の理事長、田内基(もとい、韓国名・尹基〈ユンキ〉)さん(72)は「心が純粋で器が大きい人だった。ただただ寂しい」と悼んだ。同ホームは、在日韓国・朝鮮人のお年寄りが母国の言葉や生活習慣で暮らせる施設で、菅原さんらが呼びかけた募金活動で1989年に開所した。

菅原さんは環境や平和問題にも取り組んだ。09年に集落「水源の里」の訪問を受けた京都府綾部市の前市長、四方八洲男(しかたやすお)さん(74)は「菅原さんは『皆さん品格ある顔ですね』と話していた。そういう見方をされたのは初めてで、俳優だから表情に敏感だったのかも」と振り返った。平和活動などを通じて交流があった京都府精華町の布施田正志さん(65)は「亡くなる前にもう一度会いたかった。文太さんがまいた平和の種を広げていきたい」と語った。5月に京都市で開かれた集会に、菅原さんのメッセージが届いたという。