道徳の教科化 規格化はそぐわない−毎日新聞(2014年01月12日)

http://mainichi.jp/opinion/news/20140112k0000m070100000c.html
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小中学校の「道徳の時間」を「特別の教科」にし、算数や数学、国語のように検定教科書を導入する。

識者懇談会の提言を文部科学省は近く中央教育審議会に諮問し、2018年度にも実施の見通しだ。

いわば「格上げ」だが、それがなぜ必要なのか分かりにくい。まして内面の価値観や多様性を踏まえて行われるべき道徳教育に、こうした規格化が果たしてプラスなのか。

道徳教育の強化は現政権の政策の柱だ。一連のいじめ問題が具体化の契機にもなり、いじめ防止対策推進法は学校に道徳教育の充実を義務づけた。確かに、いじめのような問題が、心の教育のあり方を見直す論議にもつながるのは自然なことだ。

しかし、それは道徳の「教科への格上げ」という形ではなく、もっと内容の改革や充実、先生への支援策に向かうべきではないだろうか。

道徳は教科ではないから、検定教科書も成績の評価もない。これまで副教材として文科省作成の「心のノート」などが使われてきた。今回の道徳充実策を受け分厚くした「私たちの道徳」を全国の小中学生に配布するが、教科化段階では教科書会社が内容を競う検定教科書を用いる。

今後、中教審を経て学習指導要領改定を告示、これに基づいた教科書編集、文科省の検定、現場の採択という手順を踏むが、その前に、もっと論議を積むべきことは多い。

先生たちにはとりわけ「評価」が悩みのタネだ。懇談会の報告も、道徳性は極めて多様な心情、価値、態度などを前提としているから数値による評価は不適切、と断じた。

そこで、子供たちの「学習の様子を記録し、その意欲や可能性をより引き出したり、励まし勇気づけたりするような記述」などを例示するが、何をどういう観点で見て判別していくのか。これは何を目的に、どういう教育を進めるかという問題に結びついていて、とても重要だ。

また教科書検定基準が改められ、「よりバランスの取れた記述」を求められるうえ、教育基本法の目標に照らし「重大な欠陥」があれば不合格となる。道徳の場合、「バランス」「模範」を意識するあまり画一的で「無難」な素材選びや記述に傾きはしないか。これも気になる。

しかし、本来は教科書に頼るのではなく、先生が身近な問題やテーマで授業を工夫し、多様な見方、感じ方から、個人の尊厳や思いやり、互助、勇気、答えがすぐ出ない問題も考える。それが基本でありたい。

思うことや意見を率直に口にしたら、「規格」に合わないかもしれない−−。もし、子供たちにこんな警戒心を芽生えさせることでもあれば、元も子もない。