筆洗 七十年前の夏、十九歳の外間守善(ほかましゅぜん)さんは、戦…-東京新聞(2014年6月27日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2014062702000141.html
http://megalodon.jp/2014-0627-1014-42/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2014062702000141.html

七十年前の夏、十九歳の外間守善(ほかましゅぜん)さんは、戦火の迫る沖縄から本土へ船で疎開する妹のために、心を込めて名札を書いた。「外間静子」と書かれた布を、十三歳の妹は黙って丁寧に服に縫い付けた。
外間さんは妹を港まで送って行った。人いきれでむんむんする船倉の奥に場所を確保してやって、船を下りた。その船・対馬丸は一九四四年八月二十二日、鹿児島県悪石(あくせき)島沖で米潜水艦に撃沈され、千五百人近い命が海に沈んだ。うち半数余が子どもたちだった。
それから二十年余たち、東京で沖縄戦の実態を伝える催しがあった時、皇太子ご夫妻の説明役を務めたのが、沖縄文化の研究者となっていた外間さんだった。冷静に客観的にと努めていたが、対馬丸遭難を説明していて心が乱れた。
甦(よみがえ)った妹の記憶が外間さんの口を動かした。「私の妹静子も乗っておりました。帰りませんでした」。周囲はとにかく先へと進もうとしたが、ご夫妻はその場に立ちつくした。美智子さまはハンカチを握りしめて体を震わせていた…。一昨年に八十七歳で逝った外間さんが自伝『回想80年』に記した光景だ。
対馬丸の子どもたちが生きていたら、八十歳前後。天皇皇后両陛下と同世代だ。ご夫妻はきょう初めて、那覇にある対馬丸の犠牲者慰霊塔に花を手向けられる。
十三歳のまま眠る静子さんたちに、どんな思いを伝えられるのだろうか。