http://mainichi.jp/opinion/news/20140520k0000m070114000c.html
http://megalodon.jp/2014-0520-0746-18/mainichi.jp/opinion/news/20140520k0000m070114000c.html
やはり政権ごとに憲法9条の解釈がころころ変わるということではないか。自民党の石破茂幹事長が週末のテレビ番組で、自衛隊が将来、国連決議にもとづく多国籍軍に参加する可能性があるとの考えを示した。
多国籍軍は1991年の湾岸戦争などで編成されたもので、平和破壊や侵略行為に対して国際社会が協力して制裁を加える国連の集団安全保障措置に位置づけられる活動だ。
安倍晋三首相の私的懇談会・安保法制懇は15日の報告書で、憲法解釈変更によって、焦点の集団的自衛権の行使容認に加えて、武力行使を伴う集団安全保障措置についても自衛隊の参加を容認するよう求めた。
しかし、首相は直後の記者会見で、集団的自衛権の行使容認を検討する一方、集団安全保障措置への参加は政府の憲法解釈と論理的整合性がとれないと指摘し、「武力行使を目的として戦闘参加することはこれからも決してない」と否定した。
それからわずか2日後、石破氏はこう語った。「やがて国民の意識が何年かたって変わった時、国連軍や多国籍軍に日本だけが参加しないというのは、また変わるかもしれない」「安倍内閣としてはやらない。次の政権が何を訴えてできるかだ」
首相発言とは明らかに矛盾する。
首相は多国籍軍の戦闘参加について現内閣でやらないと言ったのでなく、これからも決してやらないと言った。しかも政策判断でやらないのではなく、憲法解釈の整合性がとれないからやらないと言ったのだ。
首相が採用しなかった報告書の憲法解釈とは、次のようなものだ。
憲法9条1項にうたわれた「国際紛争を解決する手段」としての武力行使の放棄は、「日本が当事国の国際紛争を解決する手段」と解釈すべきであり、集団安全保障措置への参加に憲法上の制約はない。
石破氏の発言は、政権が代われば、この解釈が採用され、憲法解釈が変わる可能性があることを示している。その時々の政権の指導者が国政選挙などで訴え、国民の理解が得られればやれるということになる。
集団的自衛権論議の出発点の一つは、湾岸戦争の多国籍軍に日本が資金協力しかできなかったことへの外交当局者らのトラウマ(精神的外傷)とも言える挫折感だ。
石破氏の発言には、批判を承知のうえで、将来の多国籍軍参加の余地を残そうという狙いがうかがえる。
石破氏が言うように何年か後、国民の意識が変わり、多国籍軍参加が必要とされる時代が来る可能性は否定できない。だがその場合は、憲法解釈を変えるのではなく、憲法改正を真正面から国民に問うべきなのは当然のことだ。