憲法解釈変更の可能性。一番悪いのは国民だ! 宮台 真司さん-デイキャッチャーズボイスTBSラジオ(2013年8月9日)

http://podcast.tbsradio.jp/dc/files/miyadai20130809.mp3 (ポットキャスト)

(書き起こし)

憲法解釈変更の可能性 一番悪いのは国民だ。

法の番人ともよばれていまして、憲法解釈を担う内閣法制局。その長官に集団的自衛権憲法解釈に見直しに前向きなフランス大使だった小松氏を起用することが閣議決定されました。まず、内閣法制局とは何かについて簡単にまとめましょう。

憲法や法律についての内閣の統一解釈を示す内閣法制局。政府が国会に提出する法案をすべてチェックして、時には法案作成を断念させることもあるほどなんです。また、集団的自衛権憲法解釈では、これまで海外での武力行使は許容しないとしてきました。

(宮台)
なんで内閣法制局憲法解釈をしているんだよと、みたいな、よく左翼の方々が、むかしからおっしゃってきたことを言いたいのではないんですよ。

もう少し、レイヤーを分けたいんです。
ただし、今日(2013/8/9)の朝日新聞に出ている、元内閣法制局長官、これ独特の言い方なんですが、阪田雅裕さんがとてもおもしろいことを一つおしゃっています。

集団的自衛権を認めることはアメリカの要求通り、どこにでも軍を出すということです。単純に言うと、そういうことなのです。なので、実は、日本の憲法の平和主義であるということは実質はなくなる。つまり、日本は他の国とまったく違わない。彼の言い方ですと、他の国々で、できることはすべて、できるようになると言っていました。

さて、話を元に戻しますが、もともとだったら、憲法解釈権は国民にあることは決まっているのです。何故かといえば、国民がある歴史的な悲劇を共有した上で、二度とそのような悲劇を起こさないために、このように統治権力を樹立し、このように行動してもらう、あるいはこのような行動は絶対許さないということが、憲法なんです。しかし、なぜそうなっていないのか。

つまり、なぜ法制局があるかと言うと、公共性問題なんです。例えば、自民党憲法草案では、人権について、公(おおやけ)の利益、公の秩序を侵害しない限りと文言(もんごん)が入りますよね。この場合。想定されている公は誰が決めるかというと、統治権力が決める。法制局が決めたりすることを意味している。これが諸外国だったら、一般に近代国家だとどう考えられるかと言うとおかしい。公は市民が定義するもの、統治権力が公を定義したら、憲法の意味がなくなるのではないかとなる。ところが、日本はならないでしょう。どうしてか。佐藤優さん(元外務省の役人だった)の明快な結論があります。それは、日本人には市民的公共性を樹立する力がないから、例えば、具体的には憲法裁判所を作れという国民の意志もない。あるいは、自民党憲法草案が出てきた時の反応も非常に鈍い。あるいは、首相や副首相、自民党から言えば、総裁、副総裁がいわゆる近代憲法についての理解からみてどうなのかと発言しても国民の反応は非常に鈍い。これが、市民的公性を樹立する力が無いということです。

だったら、市民が公共性を樹立出来ない穴を誰か埋める?統治権力が埋めるんです。しかし、誰が埋めるの?政治家?官僚? 政治家、あるいは政治家が構成するキャビネット、つまり内閣というものは水物でしょう。いつ代わるかわからないし、おかしな首相が出てきて変なことを言い出す可能性がある。だから政治家ではなくて、持続性のある行政官僚制度に支えられら官僚が決めるとなっている。それが、実は内閣法制局という日本においてのみ、固有に要求される存在意義なのですね。

僕たちが未熟だから、統治権力が埋める。しかし、政治だと水物だから行政官僚が埋める。今、起こっている持続性を重視して行政官僚が前例主義的に決める、法制局の人事に手を入れて、法制局の前例主義をくつがえそうとしているのです。

ずっと、従来、小泉内閣などでも、さっき申し上げた阪田さんは、小泉内閣の時の法制局長官なんだけど、前例主義をくつがえして、市民的公共性の穴を場合によっては水物で無知で無教養かもしれないという政治家が埋めるというようになっていくんです。

国民がそもそも公共性を樹立できるまでの民度がないとは少し別の問題で法制局の存在はおかしなものなんだけど、法制局がある以上、政治の水物ぶりを抑止するためのお目付け人のようにして機能している憲法裁判所的な役割をしているのです。しかし、政治は行政の優越をするので政治がそれを認めないとすれば、人事に手を突っ込んでしまえば、従来は人事に手を突っ込んでいなかったですよね。

法制局の中で前例主義的に決めているのですけどそれが覆されました。従って、法制局に役人の動きとしては人事ということから見ても大きな問題。つまり、外務省の小松さん(元フランス大使)をそこにあてるという話になっている。法制局に解釈改憲を主導させようとしている。憲法裁判所的な役割をかろうじて果たすべく存在する内閣法制局は、あってもなくてもいいものになってしまう。そのことの意味をよく理解する必要があるんですね。そもそも論としては内閣法制局の存在をよく知らないということからして、問題。もっと言ってしまえば。なぜ、我々が諸外国にあるような憲法裁判所を樹立を要求しないのかというのが問題。小学校で習った最高裁にあたる違憲立法審査権があるのだけれど、これは違うのです。刑事や民事で訴訟が提起された時に、例えば、嫡出子、非嫡出子の相続分を区別する法律が違憲だとするのは係争案件のある時に初めて下すことができて、この法律は、あるいはこの法律に基づく行政が憲法に合致しているか、違反しているかということを日本の最高裁判所は言えない。すごいことでしょう。そのかわりに、なぜか、内閣法制局がある。法務省と比較的独立性を確保した形である。内閣からも人事が独立しているということで、それがなされてきた。制度的に支えらているというよりも、なにかうまい具合に、そうしないとうまくいかないよと、阿吽の呼吸的な、つまり保守的な考えで成り立ってきた。

ところが、安倍さんというのは、僕に言わせれば、保守主義者ではない。今の流れから分るように内閣法制局がなぜ存在し、どう機能していたのかを前提をご存じない。

(参考)
映画監督ジャン・ユンカーマン監督と改憲の国際的意味を検討しました-MIYADAI.com Blog(2013年6月2日)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1001

自民党憲法改正案の恥晒しには仰天しますが、「人間万事塞翁が馬」という言葉もあります。アメリカだって19世紀後半に家族親族が殺しあう南北戦争をし、苦労してここまで来たのです。妥当な憲法を獲得するプロセスにおいては、ダメな憲法ができたせいで国民的な悲劇を体験することも、必要かもしれない。余程賢明ならば話は別ですが。

何かというと「正義のための戦争」に訴えるアメリカは、かなり異常です。でも、ブッシュ政権の後にオバマ政権が誕生したように、アメリカには自力でスイングバックする政治文化があります。ここにアメリカの力を感じます。日本は外圧によって掣肘されない限りスイングバックできず、未成熟な社会です。