木村草太の憲法の新手(96)県民投票への不参加問題 市の主張、法律論にならず 条例に事務遂行の義務 - 沖縄タイムス(2019年1月20日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/374571
https://megalodon.jp/2019-0120-1016-37/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/374571

問題の核心は、県民投票の条例が、住民投票を実施するか否かの選択権(裁量)を各市町村に与えているかにある。
この点、宮崎政久衆院議員は16日の記者会見で、市町村に投票事務執行義務があるとの「断定的な判断ができない」と主張した。しかし、同条例5条1項は「県民投票は」「実施しなければならない」と定め、同13条も、投開票事務を「市町村が処理する」と断言している。つまり、県や市町村が県民投票の実施を怠ったり、妨げたりすることは認めていない。条例を読む限り、どう考えても、投票事務遂行は義務だ。
とはいえ、条例自体が違憲・違法なら、事務遂行の義務付けは無効だ。では、県民投票不参加の市は、条例の違憲・違法の説明に成功しているか。
不参加を表明した市長らは、第一に、「賛成・反対」の2択は不適切で、「やむを得ない」や「どちらとも言えない」などの選択肢を設けるべきだと主張する。しかし、「やむを得ない」は「賛成」の一種だし、「どちらとも言えない」なら白票を投じればよい。そもそも、「県民投票に多様な選択肢を設けねばならない」と定めた憲法・法律の規定はない。したがって、2択だからといって、条例は違憲・違法にはならない。
第二に、地方自治法252条の17の2は、県の事務を条例で市町村に処理してもらう場合に、事前の「協議」が必要だとしているところ、今回は、市町村が同意できるだけの事前協議がなかったので、条例は違法だとする趣旨の批判もある。
しかし、地方自治法が要求するのはあくまで「協議」であって、市町村の「同意」までは要求していない。県は、市町村との協議を踏まえ条例を制定しており、法律上の瑕疵(かし)はない。
第三に、県民投票は、憲法が保障する市の自治権侵害との批判もある。確かに、投票事務遂行が、市に過酷な財政負担を課したり、他の事務遂行を困難にしたりするのであれば、そうした主張も成り立ちうる。しかし、今回の県民投票では、地方財政法28条に基づき、各市町村に県予算が配分されるから、市の財政的負担はない。また、例えば、大規模災害の直後で災害対応に手いっぱいといった事情があるならともかく、今回の投票事務遂行によって、他の業務が大規模に滞るなどの主張は聞かれない。
第四に、不参加方針の市長はいずれも、事務執行予算の再議を否決した市議会の議決は重いと強調する。しかし、仮に、市議会が、「女性県民の投票事務に関わる予算」を否決したとして、市長が「市議会の議決は重い」として男性だけの投票を実施すれば、違憲であることは明白だろう。市議会には、憲法が国民に保障する平等権や意見表明の権利を侵害する権限などない。市議会の決定ならば、県民の権利を侵害してよいなどという理屈は、民主主義の下でもあり得ない。
このように不参加方針の市の主張は、いずれも法的な事務遂行義務を否定する法律論になっていない。各市は、一刻も早く、投票事務の執行に取り掛かるべきだ。(首都大学東京教授、憲法学者

沖縄県民投票“不参加”指南の背後に安倍官邸の存在か!指南議員は安倍チルドレンで、沖縄ヘイトデマ勢力と共著も - litera_web(2019年1月19日)

https://lite-ra.com/2019/01/post-4499.html

投票によって選ばれた首長が、住民の投票する権利を奪おうとする──。住民投票条例に基づいて来月2月24日に実施される辺野古の新基地建設の是非を問う県民投票をめぐり、宜野湾市沖縄市うるま市石垣市宮古島市の5市が不参加を表明、主権者の意志表示を封じようという異常事態に発展している。
その結果、本日になって県民投票の選択肢を「賛成」「反対」の2択から、「容認」「反対」「やむを得ない」の3択に増やす案で調整がはじめられたと報道。現在は不参加表明の5市の動きに注目が集まっている。
県議会では「賛成」「反対」の2択の条例案で可決されている上、「容認」にくわえて「やむを得ない」という選択肢を設けるのは事実上の「賛成」を増やそうとするだけの意図的なもの。憲法違反も指摘されている一部自治体の不参加表明によって、ここまで追い詰められていること自体がおかしいだろう。
しかも、このような事態に陥った原因である県民投票の不参加表明の背景には、自民党議員の“指南”があったことが発覚している。弁護士資格をもつ宮崎政久衆院議員が昨年12月、市町村議会が県民投票にかんする予算を採決する前に保守系議員を対象にした勉強会を開催、宮崎議員が作成した資料には〈県民投票の不適切さを訴えて、予算案を否決することに全力を尽くすべきである〉と書かれ、予算案を否決する呼びかけをおこなっていたのだ。
そして、この宮崎議員の動きが市議会の決定に影響を与えた。実際、〈市議会で予算案を否決された下地敏彦宮古島市長らが「県と市は対等で、執行するかしないかは市長の判断」「議会の意向を尊重する」と語った県民投票不参加の理由は、この資料と符合〉しており(沖縄タイムス15日付)、さらに勉強会に参加した市議は「勉強会以前は、否決をしたいという雰囲気はなかったと思っている。説明・説得などによって雰囲気は変わってきたなと感じている」と話している(テレビ朝日報道ステーション』16日放送)。
国会議員が地方自治にまで介入し、市民の投票する権利を奪うという憲法14条が規定する「法の下の平等」に違反する呼びかけをおこない、決定に影響を与えていた──。しかも、問題は、この宮崎議員の動きの背後に、官邸の存在が見え隠れすることだ。
宮崎議員は今回の問題について、官邸や自民党本部からの指示は「ない」と説明しているが、じつは、宮崎議員が県民投票の予算否決の呼びかけに邁進していた最中の昨年12月10日、宮崎議員は松川正則・宜野湾市長と連れ立って首相官邸を訪れ、菅義偉官房長官と面談をおこなっているのだ。
宮崎議員はこの面談について〈最近の外来機の飛来の多さには政府からしっかりと対応するよう求めています〉とTwitterに投稿しているが、松川宜野湾市長はこの面談から約2週間後の同月25日、下地宮古島市長につづいて県民投票への不参加を表明している。
そもそも宮崎議員は、2012年の総選挙において比例復活で初当選した“安倍チルドレン”だ。選挙戦で宮崎氏は「普天間の危険性除去に最も早くて確実な方法は県外」と県外移設を公約に掲げていたが、翌年、菅官房長官が「県外移設はあり得ない」と沖縄県選出国会議員を“恫喝”すると、宮崎議員は公約を撤回して辺野古容認派に。県民を裏切る言動に出たその後は、菅官房長官と歩調を合わせてきた。
沖縄県民投票“不参加”指南の宮崎政久議員と菅官房長のコンビが
たとえば、2016年1月におこなわれた宜野湾市長選をめぐっては、現職だった佐喜真淳氏が公約に掲げた普天間基地返還後の跡地にディズニーリゾートを誘致する構想に対し、菅官房長官が「非常に夢のある話だ。政府として全力で誘致実現に取り組むことを誓う」と約束するなど、菅官房長官を筆頭に安倍官邸が選挙戦をバックアップ。このとき、佐喜真陣営の陣頭指揮をとったのが、宮崎議員だった。
そして、この選挙で佐喜真氏が当選した翌月には、宮崎議員は衆院内閣委員会で「オール沖縄」という表現を槍玉にあげ、「普天間の返還を一番に考えてほしいし、そのことをストレートに訴えていいんだ、こういう民意が示された」「これは沖縄県民の心の叫び」と発言。すると、菅官房長官も「私も常日頃『オール沖縄』というのは現実と比較をして極めて乖離している、そういうことを言っておりました」と、まるで示し合わせたような答弁をおこなっている。
さらに、宮崎議員は2017年の衆院選で比例復活もならず落選したが、“浪人中”の昨年6月28日には、安倍首相と赤坂で会食。宮崎議員はTwitterに安倍首相との2ショット写真付きで〈今夜は安倍晋三総理から勇気を頂きました。「私の父も3回目の選挙で落選して、夫婦で選挙区を歩いてた。今の宮崎さんが沖縄でやってることと同じ。だから、必ず国会に戻れるから頑張れ」安倍総理の激励に心が震えました〉と投稿している。
この日はほかにも九州・沖縄選出の衆参議員らが安倍首相との会食に同席しているが、当時は11月に予定されていた沖縄県知事選(実際は翁長雄志知事の死去によって前倒し)に向け、安倍首相が選挙対策の強化に発破をかける意味合いがあったのはあきらかだろう。
沖縄の自治体のなかでも官邸が重要視する宜野湾市を選挙区にする宮崎議員と、菅官房長官を筆頭とする安倍官邸との二人三脚──。その上、宮崎議員は、思想的にも安倍首相と軌を一にしている。
現に2014年におこなわれた日本会議系のイベント「沖縄県祖国復帰42周年記念大会」で、那覇市にある「わかめ保育園」の園児らが日の丸のワッペンを胸に付け「教育勅語」を唱和したのだが、宮崎議員も登壇し賞賛、スピーチを披露。その上、2017年には、ヘイト出版社・青林堂が出版した『沖縄の危機!『平和』が引き起こす暴力の現場』なる沖縄ヘイト・デマ本の共著者となっているほどなのだ。
国会議員でありながら沖縄ヘイト・デマ勢力と手を結び、「沖縄の分断」に加担する。今回の宮崎議員による県民投票を妨害するような言動に官邸の指示や意向がはたらいていても、何の不思議もないのだ。
新基地建設に対する県民の意志表示、投票の権利までをも奪おうとする卑劣さ──。民主主義を平気で破壊しようとするこの暴挙には、日本全体で怒りを示さなければならない。(編集部)

「市民の迷惑なんだよ」元山さんに浴びせる大音声 水と塩だけの5日間、ドクターストップ - 沖縄タイムス(2019年1月20日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/374573
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沖縄県名護市辺野古の新基地建設の賛否を問う県民投票に不参加を決めている5市に投票実施を求め、「辺野古」県民投票の会の元山仁士郎代表(27)が宜野湾市役所前で続けていたハンガーストライキが5日目となる19日午後5時ごろ、ドクターストップで終了した。15日午前8時から始まり、水と塩だけの摂取で挑んだ元山さんのハンストは105時間に及んだ。

パトカーが出動
元山さんは記者団に「5市長がまだ参加を表明しない悔しさはすごくあるが、県議会で動きがあるのを期待して、自分のハンガーストライキという抗議は終えたいと思う」と発表した。
19日午後3時ごろから、市役所前の道路に日章旗を掲げた街宣車が停車。拡声器を使い「宜野湾市民の迷惑なんだよ。早く解散しろ」などと主張し、パトカーが出動するなど現場は騒然とした。

続行の意思示したが…
午後4時半に医師の診断を受けた元山さんは、2日前より血圧が急激に下がり、このまま続けると「危険な状態になりかねない」と中止を求められた。元山さんは続行の意思を示したが、サポートメンバーとの協議の末、終了が決まった。その後、疲労がたまった様子の元山さんはメンバーに肩を担がれて車に乗り、病院へ向かった。
その後のツイッターでは「沖縄、日本、海外からたくさんの方々に支えられ、涙があふれています」とつづった。

投票したいだけなのに
仕事の合間を縫い、元山さんのテント生活を近くで支えた那覇市の男性(24)は「昨日ぐらいから声が小さくなって反応も遅くなり、立ったり歩いたりもキツそうだった」と振り返る。
市役所前で、拡声器で大きな音を出し続ける街宣車を見つめ「あの人たちも、辺野古に賛成の人も反対の人も、みんなで話して投票したいという思いだけなのに。悔しくてたまらない」と語った。
元山さんが入院した後も、サポートメンバーが5市長に実施を求める署名は市役所前で20日正午から午後6時まで続け、週明けに5市長に届ける予定という。

安田講堂事件50年 - 東京新聞(2019年1月20日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201901/CK2019012002000114.html
https://megalodon.jp/2019-0120-1003-42/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201901/CK2019012002000114.html

東大の学生らが本郷キャンパス安田講堂を占拠した「安田講堂事件」は、一九六九年一月に警視庁の機動隊が突入して封鎖を解除してから十九日で五十年となった。赤い旗が掲げられた日本を代表する最高学府のシンボルは、機動隊の撃ち込む催涙弾や放水の水煙、学生側の火炎瓶の煙でかすんだ。頭上から降り注ぐ投石をくぐり抜けて講堂内に入った元機動隊員は当時の状況を鮮明に記憶し、民主的な大学運営を求めた元学生は権威にあらがうことの重要性を訴え続けている。
◆元学生 「権力へ異議」信念貫く 
安田講堂事件では、東大の学生だけでなく他大学の学生らも占拠に加わり、激しい抵抗を続けた。その胸には、封鎖が解除されてから五十年を経てもなお、自らの行動への信念や思いが浮かんでくる。
東大で物理学を研究する大学院生だった田尾陽一さん(77)=福島県飯舘村=は、安田講堂に立てこもった。きっかけは、医学部生の改革運動を巡って大学が学生を処分した際、無関係の人物を含んでいたことだった。非を認めない大学の姿勢に憤慨。寒さと催涙弾のガスによる目の痛みに耐えたのは「真実を見ない東大当局の権力に異議を申し立てる戦いだったから」。
研究者の夢を諦めたが、後悔はない。現在はNPO法人の理事長として、東京電力福島第一原発事故で被害を受けた村の再生を目指す。「原発事故でも権力者は責任を取っていない。五十年前の東大と何も変わっていない」
東北大二年だった須永貴男さん(71)=群馬県伊勢崎市=は、仙台市から東大へ駆け付けた。安田講堂とは別の建物に籠城したが、機動隊との攻防初日に封鎖が解かれて連行された。「間違ったことをしたとは思わないが、あれで世の中が変わったとは思わない。ただ、何かを変えたければ運動を起こすしかないことは分かった」と振り返り、今は労働組合の活動に従事している。
◆元機動隊員 火炎瓶や石、雨のよう
「火炎瓶や石が雨のように降り、講堂前は火の海になっていた」。半世紀前の一九六九年一月、警視庁第五機動隊の巡査部長として安田講堂に突入した伊佐治功雄さん(77)。今も当時の状況を克明に思い出せるという。
伊佐治さんは一月十八日、騒乱状態だった近くの神田地区から東大へ転戦してきた。学生らは講堂にバリケードを築き、火炎瓶や石を次々と投げつけてきて、なかなか接近することができない。機動隊は火を放水で消し、催涙弾を撃ち込みながら、火炎瓶などを使い切らせる戦術を取った。
効果が出たのか、翌日には飛んでくる火炎瓶などが減ったように感じた。ジュラルミン製の盾を屋根にしたトンネル状の進路も完成。正面玄関から一気に突入すると、積み上げられた机や椅子に阻まれる。隙間からは学生らが棒を突き出して抵抗してきた。
たどり着いた外階段の踊り場に、はしごを掛けて駆け上がると、屋上は催涙弾の粉と水で真っ白に見えた。時計台の近くに数十人の学生の姿があった。火炎瓶は残っておらず、反撃の様子はなかった。
後続の隊員のため滑り止めの毛布を並べて道を作り、学生に近づいた。労働歌のインターナショナルを歌っており、「あれだけ暴れた連中とは思えず、覚悟を決めているようだった」。学生の身柄を確保し、まもなく安田講堂の封鎖解除は完了した。
「一歩間違えば、この世にはいなかった」と語る伊佐治さん。消し去ることができない疑問がある。「学生を高揚させ、駆り立てたものは何だったのか」

安田講堂事件> 1968年1月、東大医学部生が無給研修医制度への反対ストを始めた。大学が「医局員を軟禁して交渉した」として学生を処分したが、1人がその場にいなかったことが判明。7月以降、大学と対立した学生が安田講堂を占拠した。医学部以外にも波及し、東大闘争全学共闘会議全共闘)が結成され、大学運営の民主化などが争われた。大学当局の要請を受けた警視庁機動隊が、69年1月18、19日に安田講堂などから学生らを排除して封鎖を解除した。一連の紛争の影響で同年の入試は中止された。

<家族のこと話そう>両親の見守りに感謝 不登校経験の漫画家・棚園正一さん - 東京新聞(2019年1月20日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201901/CK2019012002000189.html
https://megalodon.jp/2019-0120-1022-07/www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201901/CK2019012002000189.html

小中学校の九年間、ほとんど学校には行きませんでした。きっかけは小学一年生の時に授業についていけず「分からない」と言ったら、先生にいきなりビンタをされたこと。学校が怖くなり、母に泣きながら「行きたくない」と訴えました。
両親は無理に学校に行かせようとはせず、家で好きな漫画をまねて描くようになりました。時々学校に行ける日もあったけれど、僕は普通の子とは違う気がして、教室に居場所がないと感じました。登校しても、また行けなくなりました。勉強は学校の先生が家に来てくれたり、家庭教師が教えてくれたりしました。
小学六年生の時には、不安やイライラが募って爆発。母の大切なコーヒーカップを壁に投げ付けたり、玄関の窓を手で割ったりしたこともありました。夜、勉強中に理解できない問題があり、寝ている両親を「分からない」と泣き叫びながら起こしたことも。「育て方を間違えた」と力なくつぶやいた父の姿をよく覚えています。
専業主婦の母はずっと優しく見守ってくれていたけれど、僕が家で暴れるようになって限界を迎えたのでしょう。一カ月ほど家を出て、近くにある祖母の家で過ごしていた時期もありました。
転機が訪れたのは、中学一年生の時。大好きな漫画「ドラゴンボール」の作者の鳥山明さんと母が同級生だった縁もあり、鳥山さんにお会いする機会がありました。鳥山さんに僕の漫画を見てもらったら、「自分の世界がある」とほめてくれて、自信がつきました。
中学卒業後は、専門学校を経て大学に進学。アルバイトをしながら漫画を描き続けて賞も取り、三十歳ごろからやっと漫画家として食べていけるようになりました。僕の不登校経験を描いた漫画には、両親も登場します。
僕は不登校の子どもや親に向けた講演会もしています。講演後、泣きながら「子どもを殺して自分も死にたい」と話してきた人もいました。追い詰められている親も多いけれど、「あせらなくて、大丈夫」と言ってあげたい。
昨年、愛知県が悩みや困難を抱えている子どもに向けて作ったメッセージ集の表紙に僕の絵が使われ、僕のメッセージも掲載されました。両親はとても喜んでくれました。母は最近になって「不登校の経験が、誰かの役に立つようになったね」と僕に言ってくれるようになりました。人とは違う経験をしたからこそ、今の僕がいる。見守り続けてくれた両親には、感謝しかありません。

聞き手・細川暁子/写真・佐藤哲

<たなぞの・しょういち> 1982年愛知県生まれ。名古屋芸術大在学中に集英社主催の「少年ジャンプ手塚賞」を受賞。2015年に出版された不登校経験を描いた作品「学校へ行けない僕と9人の先生」(双葉社)はフランス語にも翻訳された。小学館ビッグコミックスペリオール」で「マジスター〜見崎先生の病院訪問授業〜」を不定期連載中。

特別養子「15歳未満」検討 法制審部会、対象年齢引き上げ - 東京新聞(2019年1月20日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201901/CK2019012002000132.html
https://megalodon.jp/2019-0120-1019-47/www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201901/CK2019012002000132.html

実の親が育てられない子どものための特別養子縁組制度について議論している法制審議会(法相の諮問機関)の部会が、現行で原則六歳未満としている対象年齢を、小中学生が含まれる十五歳未満に引き上げる見直し案を固めたことが十九日、関係者への取材で分かった。十五〜十七歳でも条件を満たせば、例外的に縁組を認めることも検討している。二十九日の部会会合で最終決定し、二月に民法改正の要綱案を山下貴司法相に答申する予定だ。
現行制度は、児童養護施設に入所している六歳以上の子どもが利用できないといった問題点が指摘され、対象年齢の引き上げを検討していた。一方、対象年齢を上げれば上げるほど、養親との関係構築が難しくなる側面もあり、部会内でも意見が激しく対立した。
部会の中間試案では八歳未満や十三歳未満、十五歳未満などの複数案を示していた。十五歳以上は民法上、本人意思で一定の法律行為が認められ、本人が同意すれば、実親との法的関係が残る普通養子縁組が可能となることなどから、十五歳未満が適当と判断したという。
十五〜十七歳の子どもについては(1)本人の同意がある(2)十五歳になる前から養父母となる人と一緒に暮らしている−などを条件に、例外的に特別養子縁組を認めることを検討している。
特別養子縁組は、虐待や経済的事情で実親が育てられない子どもに、家庭的かつ永続的な養育環境を与える選択肢の一つ。司法統計によると近年、年間五百〜六百件の成立で推移している。
厚生労働省の調査によると、成立時の年齢はゼロ〜一歳が六割以上だが、六歳前後も一割強いる。年齢制限が障害となって活用できていないとして昨年六月、当時の上川陽子法相が法制審に見直しを諮問していた。

特別養子縁組> 1988年開始の制度で民法に規定されている。普通養子縁組は実親との法的関係が残るのに対し、実親との法的関係が消滅し、戸籍上も養父母の「実子」と同等の扱いになる。養親となる人の申し立てに基づき、家庭裁判所の審判を経る必要がある。養子の年齢は申し立ての時に6歳未満でなければならないが、その前から養親対象者に育てられている場合は8歳未満でも対象となる。

外国籍の就学不明児 見過ごすのは恥ずかしい - 毎日新聞(2019年1月20日)

https://mainichi.jp/articles/20190120/ddm/005/070/026000c
http://archive.today/2019.01.20-010605/https://mainichi.jp/articles/20190120/ddm/005/070/026000c

行政が放置してきた問題がやっと明らかになってきたといえよう。
小中学校に通う年齢にありながら、通学していない外国籍の子どもたちがいる。毎日新聞が外国籍の子どもが多い100自治体を対象に昨年行ったアンケートでは、全体の2割の約1万6000人に上った。
全国では、さらに数字は膨らむだろう。その人数の多さに驚く。
外国籍であっても本人が希望すれば就学できる。また憲法は、国民に対し子どもに教育を受けさせる義務を定める。ただし、外国籍の保護者は「国民」に該当しない。このため具体的な対応は自治体任せで、約4割の自治体は、不就学の子どもがいても、事実上放置している。
親の就労に伴い在留する0〜18歳の外国人は、2017年末で28万人超だ。今後も増加するだろう。学校に行かないまま成人すれば社会で孤立する要因になる。日本社会に適応する礎になるのが義務教育である。現状を見過ごすのは恥ずかしい。
不就学の背景に児童虐待があったケースもある。子どもの生命や人権を守る観点からも対応が急がれる。
住民登録している子どもが全国で最も多い横浜市や2番目に多い大阪市では、就学不明が1000人を超える。だが、住民基本台帳に基づき、学校に通っていない子に就学案内を送付するにとどまっている。
一方、全国で5番目に多い浜松市では就学不明児は2人という。同市は、日系3世に「定住者」の在留資格を認めた1990年の入管法改正を機に、南米からの移住者が急増した。長年かけて学校での日本語教育充実に取り組んできた。外国籍であっても地域社会の一員だとして、学校に来ていない場合、家庭訪問を繰り返し、就学を促しているという。
国が主導して就学不明児の実態をまず調べる必要がある。日本人の子どもが学校に通学していない場合、学校や行政、警察などが協議会を作って情報共有しながら対策を進める。そうした枠組みを生かして調べるのも一つの方法だろう。その上で、就学につなげる指針を示すべきだ。
教育の機会を提供するためには、受け入れ側の態勢強化も欠かせない。教師ら人員の増強や、子どもの日本語能力に応じた指導の工夫など検討を進めてもらいたい。

(余録)27年ぶりに無冠になったとはいえ… - 毎日新聞(2019年1月20日)

https://mainichi.jp/articles/20190120/ddm/001/070/099000c
http://archive.today/2019.01.20-011036/https://mainichi.jp/articles/20190120/ddm/001/070/099000c

27年ぶりに無冠になったとはいえ、羽生善治(はぶ・よしはる)九段は、どんな頭脳の持ち主かと思う人は多いだろう。羽生さんに限らなくても、対局終了後に行われる感想戦にはいつも驚かされる。一手一手を記憶するのはプロなら当たり前だろうけれど。
では記憶力は入学試験でどこまで重視すべきか。きのう始まった大学入試センター試験は2020年度から大学入学共通テストに変わる。知識偏重から思考力や判断力を問う方向へ転換するという。だが簡単な道ではないはずだ。
それは外国でも課題だったようだ。16世紀フランスの思想家、モンテーニュは著書「随想録」の中で「詰め込み教育」を批判している。「われわれは、ひたすら記憶をいっぱいにしようとだけ努めて、理解力とか良心などはからっぽのままほうっておく」
彼は批判の矛先を教師に向ける。鳥は穀物を探しに出かけ、それを味わいもせずに、ひなに餌として与える−−それと同じように「書物の中で知識をあさっては、それを口の先にのせておくだけで、吐き出して、風の吹くままどこかに飛ばしてしまう」と。
もちろん知識は大事だ。羽生さんは著書「羽生善治 闘う頭脳」で、プロになって1年ほどたって「やっと考えることと知識がかみ合い始めた」と振り返る。つまり、詰め込み教育ゆとり教育のスイッチを入れ替えながら両方ともやっていく必要があるという。
なるほど。でも羽生さんのように、そんなことができる人はそうそういない。だから教育も試験も難しい。

週のはじめに考える 海峡をはさむ国と人 - 東京新聞(2019年1月20日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019012002000171.html
https://megalodon.jp/2019-0120-1152-09/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019012002000171.html

日韓関係が揺れています。韓国人元徴用工への賠償支払いを日本企業に命じる判決が、韓国で相次いでいるからです。有効な手だてはあるでしょうか。
「十五時間も穴にもぐらされているのに、飯は少ない。石炭を掘りながら、食い物のことばかり考えているよ」
一九四三年に朝鮮半島から日本に来た、十七歳の男性を主人公にした小説「三たびの海峡」(帚木蓬生(ははきぎほうせい)著)の一節です。
貨物列車で九州の炭鉱に連れて行かれた男性は、坑道の奥深くで働きますが、その後逃亡して祖国で成功、日本を再訪問する−。映画化もされたこの小説は、フィクションではありません。

◆日本での厳しい境遇
韓国政府は、第二次大戦末期、日本の植民地だった韓国から、軍人などを除く約十五万人が日本で働かされたと認定しています。
暴力も伴う厳しい監視の下、日本人も避ける危険な仕事に回されました。賃金は強制貯金され、支払われないこともありました。
この問題に関連し日本政府は、六五年に実現した日韓国交正常化の際、有償二億ドル、無償三億ドル分を「経済協力」の名目で韓国政府に渡しています。
この時交わした日韓請求権協定には、「問題は完全かつ最終的に解決」との文言が盛り込まれ、韓国政府も同意しています。
韓国が経済成長した後、韓国政府が責任を持って、強制労働させられた人などへの補償(請求権)問題を解決する−そういう意味を持った合意でした。
当時は東西冷戦やベトナム戦争があり、米国を含めた三カ国の結束を固める必要から、さまざまな問題を一括妥結させたのです。
韓国に無償で渡されたのは現金ではありません。金額分に当たる、日本の生産物や役務でした。

◆決着済みだった問題
その韓国で、元徴用工や女子勤労挺身(ていしん)隊員として働いた人たちへの賠償を命じる判決が相次いでいます。問題を蒸し返すのか。そう感じた人も多かったはずです。
ただ、家族から離れ、過酷な環境で働かされた人たちの体験を、忘れてはならないでしょう。
この人たちは帰国後、ねぎらわれるどころか「日本に協力した」と白い目で見られました。
日韓両政府の問題処理にも納得できず、支援者の協力を得て訪日を果たし、企業との直接交渉を始めたのです。
一部企業は和解に応じましたが、多くは和解を拒んだため、賠償を求めて日本で裁判を起こします。九〇年代のことです。
日本での判決は、原告たちの厳しい労働実態を認定しています。しかし、すでに外交的な解決が図られたことから、請求はできないとの判断を下し、原告は敗訴。裁判は韓国に場所を移します。
この間、韓国は民主化を果たし、市民の声が政治を動かすようになりました。それが徴用工問題にも反映していきます。
協定では決着済みでも「未解決」部分が残っているのなら、解決すべきだという考え方です。
日本の植民地支配に対する解釈でも日韓は対立していますが、重要なのは高齢となった被害者の心を満たし、どう救済するかです。
原告らは判決に従い、資産の差し押さえを行う構えを見せています。もしそうなれば、日韓関係はさらに緊張するでしょう。
一方、別の被害者らは、「補償責任は韓国政府にある」として、昨年暮れ、逆に韓国政府を相手に集団訴訟を起こしています。
混乱を防ぐため、韓国政府は、日本からの援助で利益を得た韓国企業、日本企業による三者基金をつくり、幅広い救済に当たる構想を持っています。日本政府は基金には否定的で、韓国側に協議を申し入れています。差し押さえには対抗措置をとる姿勢です。
一致点はなかなか見つかりません。例えば、米中の国交樹立をはじめ、難しい交渉を実らせたキッシンジャー元米国務長官の外交術は一助にならないでしょうか。
タフな交渉者のイメージが強い人ですが、意外にも「相手の趣味や関心に理解を示し、相手の視点に共感し、同じ心境になろうとした」(「キッシンジャー超交渉術」日経BP社)そうです。当たり前ですが、大切な姿勢です。

◆今後も続く隣国関係
今、日韓間ではレーダー照射問題などを巡っても、激しい応酬が繰り返されています。理屈は双方にあるにせよ、この「視点や共感」が不足しているのではないでしょうか。
両国の外相は、二十三日に会談する予定です。元徴用工の人たちが味わった思いを考えたい。そして引っ越せない隣国である両国が知恵を寄せ合って、なんとか方策を探ってほしいと思います。

三たびの海峡 (新潮文庫)

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