沖縄知事選 玉城デニー氏が初当選 辺野古反対派に追い風 - 毎日新聞(2018年9月30日)


http://mainichi.jp/senkyo/articles/20181001/k00/00m/010/065000c
http://archive.today/2018.09.30-124137/http://mainichi.jp/senkyo/articles/20181001/k00/00m/010/065000c

翁長雄志(おなが・たけし)知事の死去に伴う沖縄県知事選は30日、翁長氏の後継として米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への県内移設計画に反対する元自由党衆院議員の玉城(たまき)デニー氏(58)が、移設を進める安倍政権が支援した前宜野湾市長の佐喜真淳(さきま・あつし)氏(54)=自民、公明、維新、希望推薦=ら3氏を破り、初当選を確実にした。政府は移設を計画通り進める方針だが、玉城氏は「あらゆる権限を駆使して阻止する」としており、今後も政府と沖縄の対立が続く。
1996年の日米両政府による普天間飛行場の返還合意以降、知事選は6回目。移設阻止を掲げた翁長氏が移設推進を訴えた現職を大差で破った2014年の前回選に続き、辺野古移設反対の強い民意が改めて示された。一方、9月の自民党総裁選で3選した安倍晋三首相は10月2日に内閣改造を行うが、全面支援した佐喜真氏の敗北は来年の統一地方選参院選を前に大きな打撃となる。

沖縄県知事選 玉城デニー氏が当選確実 「菅官房長官と小泉進次郎氏の演説で失敗」(自民党幹部) (1/2) - AERA dot. (2018年9月30日)

https://dot.asahi.com/wa/2018093000029.html?page=1

9月30日投開票の沖縄県知事選挙で辺野古移設に反対する前衆院議員玉城デニー氏(58)が当選を確実にした。
政権与党の自民党公明党が推した前宜野湾市長、(54)と在職中に亡くなった翁長雄志前知事の後継として、オール沖縄が支持した前衆院議員、玉城氏の事実上、一騎打ちとなった。
玉城氏が世論調査などでは終始リードし、そのまま、逃げ切って当選確実を決めた。
「なんとかリベンジをと思ったが、歯が立たなかった」
と沖縄の自民党の地方議員は悔しそうにそう話した。
自民党が投票直前に行った出口調査では佐喜眞氏が追い上げ、1ポイント程まで差を詰め、あわや逆転かとも思われた。
自民党世論調査で追い詰められ、逆に結束が固くなった。それまではオール沖縄共産党社民党がそれぞれバラバラに動いて
いた。だが、このままでは勝てない、翁長氏の遺志を継いで成し遂げなければ、と一致団結したことが勝利につながった」(玉城氏を支援した地方議員)
一方、安倍政権としては辺野古基地移転問題などを抱え、絶対に勝たなければならない選挙だった。自民党幹部がこう頭を抱える。
「4年前に翁長氏に負けた瞬間から、4年後に勝つためにやってきた。告示前から、二階幹事長を筆頭、筆頭副幹事長の小泉進次郎氏も3回も沖縄入り。公明党も山口代表以下、幹部が続々と現地に入った。新潟県知事選挙で勝利したように、期日前投票で圧勝して貯金をつくり、当日は互角で勝つ戦術だった。だが、自民党公明党の支援者でも辺野古など基地移転問題では反対を示す離反者が続出した。玉城氏の演説会に創価学会の三色旗を振る人まで出て、票が流れてしまった。とりわけ、これまで安倍首相に代わって厳しい姿勢を沖縄にとり続けていた菅官房長官が進次郎氏と一緒に入って演説したことが、失敗だった。辺野古のへの字も言わず、携帯電話の値下げの話などを延々と喋り、『帰れ』と怒号まで飛び交う始末だった」
前出の自民党幹部は公明党についてもこう語った。

公明党さんには最後までよく支援をしてもらった。投開票終了直後に当確が出るほど差が開いてしまった。安倍首相が総裁選で勝利し、さあ最後の締めくくりと思っていたが、出鼻をくじかれた。これまで安倍政権が長期にやれたのは、実力以上に野党がダメすぎたから。オール沖縄で結束されると勝てることを2回も実証された。来年の参院選挙は沖縄の二の舞になるかも。玉城氏の勝利で自由党小沢一郎氏が発言力が増すだろう。そこが一番怖い」
翁長氏の遺志を継ぐと宣言している玉城氏。当選後、初めての大仕事が安倍首相や菅官房長官への挨拶となる予定だ。翁長氏が当選直後、東京で安倍首相や菅官房長官に面会を求めたが、実現しなかった。

「翁長氏は安倍首相や菅官房長官が面会拒否したことを、本当に悔しがっていた。当選の挨拶だけなのに、なぜ、こんな態度を取るのかと心底、怒っていた。玉城氏にはそういう対応をとらないでほしい」(前出のオール沖縄の地方議員)
安倍政権には大きな黒星となりそうだ。(今西憲之)

デニーさんが沖縄県知事になると(finalvent) - ポリタス 『沖縄県知事選2018』から考える finalvent (ブロガー)(2018年9月27日)

http://politas.jp/features/14/article/615

デニーさんという人は信頼できる
私が今も沖縄県民だったら、今回の沖縄県知事選挙ではためらうことなく、玉城デニー候補(58)に投票するだろう。理由はとても単純である。私は彼、「デニーさん」と直接話したことがある。彼の、笑みを絶やさぬ穏やかで優しい語り方から、その人柄に感銘したからである。この人は信頼できると思った。そして、米兵を父に持ち、コザ暴動の時代も体感しただろうこの人は、沖縄というものを知っていると確信した。
米兵を父に持ち、コザ暴動の時代も体感しただろうこの人は、沖縄というものを知っている
それは1996年、地位協定と米軍基地縮小をめぐる県民投票が迫るころ。私も沖縄県民だった。沖縄本島中部のコザに拠点を置くコミュニケーションFMラジオ局、FMチャンプラの夜の生特番に、ちょうどその年に大阪から沖縄に移住してきた沖縄人二世の仲村清司さんと一緒に呼ばれた。2年ほど前に「ウチナー婿(沖縄県民の妻を持つ本土人婿)」となって沖縄タイムスにコラムなど書いていた私たちは、新沖縄県民という感じのポジションである。その打ち合わせで同局の運営に関わるデニーさんと話したのだった。

すでに私は、デニーさんについて、琉球放送ラジオの人気番組「ふれ愛パレット」のパーソナリティとしてその声になじんでいたので、会ったときは、「わー、デニーさんの本物」と感慨深かった。あの生特番はコザの祭りとも言える夜だった。てるりんこと照屋林助もいた。白ずくめの巨漢だった。伝説のロックバンド紫のメンバーもいた。私はコザという街のエネルギーに触れた。そこに沖縄というもののある本質を感じた。後に、BEGINの「島人ぬ宝」の歌が流行ったころ、「大切な物がきっとここにあるはずさ」というフレーズを聞くと、その夜のことを思い出す。

その輪にいるデニーさんを見ながら、米兵が父でありながらその面識もなく育ち、英語が苦手なのに、「うちなーぐち」(沖縄方言)は達者な彼が、いずれ未来の沖縄を支えていくのだろうと思った。そのときは、なんとはなしの予感だったが、彼は2002年に沖縄市議会議員選挙に立候補し、トップ当選した。その報を聞いてしばらくした後、私は沖縄で育てた子供4人と妻とで沖縄を去ることになったが、そのおりも、いつかデニーさんが沖縄県知事になればいい、いつかその日は来るだろう、と願った。その日はもうすぐ来るだろう。

沖縄県知事は沖縄の生活全般を知る人であってほしい
ここまで私は個人的な話をした。私は、足掛け8年、沖縄独自の親族構造に組み込まれ、そこで産んだ4人の子供の育児をしながら沖縄の漁村で暮らした。その経験から思うことは、沖縄の人たちが彼を県知事に選ぶなら、そうしたデニーさんへの親しみゆえだろう、ということだ。個人的な思いゆえだろう。あのデニーさんなら沖縄という生活の空間と歴史を知っているという信頼である。

沖縄県民がデニーさんを県知事に選ぶのは、その多くは基地問題イデオロギー的な政治問題の立ち位置からではない

別の点から、あえて嫌われる言い方をするなら、沖縄県民がデニーさんを県知事に選ぶのは、その多くは、基地問題イデオロギー的な政治問題の立ち位置からではないだろう。沖縄の長に立つ人は、沖縄の生活をお腹の底から知っている人であってほしい(余談だが「おなか」は沖縄っぽい言葉の響きがある)。それは、長堂英吉の小説『ランタナの花の咲く頃に』や大城立裕の戯曲『トートーメー万歳』、藤木勇人の一人芝居『黙認耕作地』のような沖縄の生活も知っている人ということだ。

もちろん、自公推薦の佐喜眞淳候補もそういう人なのだ、と信頼を寄せる人も少なくないだろう。すでに多くの支持を得て沖縄県宜野湾市長を二期務めた彼こそが沖縄県知事にふさわしいという結果になるかもしれない。フランス留学歴も長い彼も沖縄らしい国際性を示す人物なのかもしれない。沖縄の生活空間から離れて久しい現在の自分としては、佐喜眞候補ではだめだという理由は特にない。

デニー県政はそれでも混乱するだろう
私はデニーさんが沖縄県知事となってほしいと思うが、反面、本当に苦難の道を選ばれたものだなとも思った。8月8日、任期を全うすることなく膵がんのため67歳で亡くなった翁長雄志沖縄県知事の弔い合戦とも言えるような文脈で彼が語られる状況を知って、さらに同情を深めた。

一方に米軍基地反対の唱和があり、他方に米軍基地が必要ならなぜ本土に移転しないのかという口にしづらい疑問が県民にある

懸念も覚えた。翁長知事の死は、結局のところ後継者を選びきれなかった点でも悲劇的なものだった。翁長氏を非難したいわけではないが、沖縄県知事という要職にあったのだから、深刻な健康問題を抱えていると本人が理解した時点で後任を示唆して辞職すべきだった。だが、できなかった。つまりは、それができなかったという点に、すでに沖縄県知事の職が抱える問題が示されている。あえて率直に言えば、沖縄と本土日本を挟んだ政治なるものの矛盾だろう。一方に米軍基地反対の唱和があり、他方に米軍基地が必要ならなぜ本土に移転しないのかという口にしづらい疑問が県民にある(米国としては空軍を除いて沖縄に米軍基地を置く強い意志はない)。

翁長知事が生前、後継者を示唆できなかった背景は、今回の知事選候補選びでも露呈していた。本土与党系の自公が、経済利害的な状況を含め、7月末までには候補者選びを進めることができたのに、本土野党系と親和な政治勢力は8月下旬まで候補が絞り込めないでいた。県政与党会派や辺野古新基地建設に反対する勢力は知事選のために「調整会議」を設置したのだが、8月17日時点の候補は、謝花喜一郎・副知事(61)、赤嶺昇・県議(51)、呉屋守将・金秀グループ会長(69)の3人に絞り込まれ、玉城デニーという名前はそこになかった。この時点で、謝花氏は様子見、呉屋氏は否定、意欲的だったのは赤嶺氏のみ。当初11月に予定されていた次期知事選に向け、5月時点ですでに「オナガ雄志知事を支える政治経済懇和会」の会長に会派おきなわの赤嶺昇県議が就任し、調整会議との連携を見据えていた。

翁長知事が生前、後継者を示唆できなかった背景は、今回の知事選候補選びでも露呈していた

この流れからすれば、本土野党系(事実上の辺野古基地移転反対派)に親和的な勢力は、知事選には赤嶺候補でまとまるはずだった。が、唐突な印象で、翁長知事が残したとされる遺言テープといった話題から、急転して玉城デニー氏の名前が浮上した。

デニーさんとしても想定外の事態ではなかったかと思われるが、その後の流れを見ると、収まるところに収まったようにも見える。つまり、それがデニーさんへの沖縄県民の信頼といったものだろう。他方、デニーさんが沖縄県知事となっても、候補選択過程の紆余曲折の力学は表面化するだろう。選挙までは、政治的な文脈で辺野古新基地建設に反対する勢力が主導しているかに見えても、行政の現実となれば残念ながら混乱するだろう。

つまりは、翁長県政と似たような状態になるだろう。表面的には、玉城デニー県知事で何が変わったのかという批判も出てくるだろう。

県知事としてデニーさんを沖縄県民が選びだしたのだという意味、つまり沖縄県民の信頼の情感というものは、なかなか本土には伝わらないのではないだろうか。

デニー」沖縄知事は日本の政治の多様性にもなる
ポリタスの津田氏から本稿の依頼があったとき、彼は「翁長知事の弔い合戦という性質が色濃くなっていきている上、基地問題に焦点が当たるのは当然の成り行きかと思います。しかし、現実問題として佐喜真候補が勝とうが、玉城候補が勝とうが、普天間基地返還や辺野古移設(新基地建設)問題がすんなり解決する見込みは立っておらず、この複雑さが、本土でこの問題の理解が進まない原因の一つになっているように思います」と添えていた。

基地問題という視点は、「複雑さ」を覆うための単純化の道具にもなりえてしまう

知事選候補選択の過程を見てもその「複雑さ」は察せられる。その背景の利権の構造なども指摘できるかもしれない。他面、その「複雑さ」が沖縄における地方二紙や地銀三行といった、他地方には珍しい状態を支えているのかもしれない。沖縄の「複雑さ」は、親族構造や27年間にわたる米統治下経験を含め、琉球という異文化を日本という近代国家に統合したゆえの課題でもある。あえて言うなら、基地問題という視点は、「複雑さ」を覆うための単純化の道具にもなりえてしまう。

デニーさんが沖縄県知事になることで、本土の人もデニーさんの肉声を、以前にもまして聞く機会も増えるだろう。デニーさんを支えてきた沖縄の人の声も聞けるだろう。

米兵と沖縄県女性の子供として、玉城康裕((たまきやすひろ))と名付けられた彼は、母からは「デニス」と呼ばれ、周りからは「デニー」として慕われた。そして、「デニーさん」と呼ばれつつ知事になる。それは、多様性を飲み込んでいく沖縄の歴史の歩みそのものだ。むしろこうした多様性は本土日本の政治に示唆するところも大きいだろう。

マハティール氏 平和憲法支持 戦争参加へ改憲「大きな後退」 - 東京新聞(2018年9月30日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201809/CK2018093002000116.html
https://megalodon.jp/2018-0930-1000-32/www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201809/CK2018093002000116.html

【ニューヨーク=赤川肇】マレーシアのマハティール首相(92)は二十八日、日本の改憲の動きについて「もし改憲して戦争することを許容するなら大きな後退だ」と警鐘を鳴らした。国連総会での一般討論演説後の記者会見で答えた。
かねて評価してきた日本の憲法九条について認識を問われ「(改憲は)平和を促すのではなく、問題解決のために戦争を使う他国に加わることになる」と指摘。九条を「日本が戦争することを許さない憲法」と位置づけ、「私たちも追随することを考えている」と述べた。
総会の演説でマハティール氏は、テロの続発や米中の貿易戦争を例に「世界は十五年前より悪化している。経済的、社会的、政治的に混乱状態だ」と指摘。パレスチナ問題ではイスラエル不法行為が国際的に看過されているとして、国際社会の関与を呼び掛けた。
マハティール氏は五月に十五年ぶりに首相に復帰した。親日家として知られる。

◆国連の場で意義を 市民団体働き掛け
マレーシアのマハティール首相に対しては、埼玉県日高市市民グループ「SA9(九条を支持せよ)キャンペーン」が、国連の場で憲法九条の意義を語ってほしいと働き掛けていた。中心メンバーの在日ドイツ人平和歴史学者クラウス・シルヒトマンさん(74)は本紙の取材に「私たちが望んでいた発言とほぼ同じ内容だ。とても勇気づけられた」とマハティール氏の発言を歓迎した。
シルヒトマンさんらは、マハティール氏が八月に来日した際、憲法九条に倣って自国の憲法を改正する考えを表明したことに注目。今月、マレーシア首相府に同氏宛ての親書を送り、国連で九条の価値に触れ、各国が憲法に同様の規定を設ける重要性を訴えてほしいと要望していた。
市民グループは、国連総会での憲法九条の支持決議を目指している。憲法に平和規定を持つ国や非武装国を中心に、在日大使館や国連本部に趣意書を送付。非武装パナマや世界的に影響力があるバチカン市国の在日大使館を訪れ、大使らと意見交換してきた。マハティール氏への働き掛けも、こうした運動の一環だ。
今後は運動にマハティール氏の発言を取り入れ、賛同の輪を広げていきたい考え。事務局を務める政治学者の大森美紀彦さん(66)は「マハティール氏の発言にはとても感動した。小さな市民運動だが、これからも頑張っていきたい」と話した。 (安藤美由紀)

公害認定50年 「水俣病」は終わらない - 朝日新聞(2018年9月30日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13702382.html
http://archive.today/2018.09.30-010202/https://www.asahi.com/articles/DA3S13702382.html

熊本と新潟で発生した水俣病を、政府が「公害病」と認定してから50年になる。
これだけの長い時間が経ったにもかかわらず、いまも訴訟が続き、患者に対する心ない中傷と差別、そして補償の有無や金額をめぐる対立・葛藤が、地域に暗い影を落とす。
認定は68年9月26日。熊本で患者の発生が最初に報告(公式確認)されてから、実に12年が過ぎていた。原因企業のチッソはこの年の5月まで、大量のメチル水銀不知火海に排出し続けた。対応の遅れは膨大な患者を生み、昭和電工による新潟水俣病の被害ももたらした。
認定時に政府がとりまとめた見解にあらためて目を通すと、事実に基づかない、きわめて不誠実な内容に驚く。
水俣湾内の魚介類を食べることを禁止し、チッソ工場の排水処理施設を整備したことによって、患者は60年以降出ていないとして「終息」を宣言。補償問題も民事上の和解が成立しているとして、幕引きを図った。
だが摂食禁止は有名無実で、施設も水銀を完全に除く機能はなく、汚染は止まらなかった。和解も、圧倒的に強い立場のチッソが、新たな要求はしないと患者に約束させたうえで低額の見舞金を支払う内容で、73年に熊本地裁が「公序良俗に反する」と述べ、無効とした。
その後も新たな患者の存在が次々と明らかになり、現在、新潟を含む全国の裁判所で1500人以上が被害を争い、水俣病と認定するよう申請している人は2千人にのぼる。
「終息」にほど遠い状況を作りだした大きな原因は、行政のかたくなな態度にある。
患者の認定制度は対象を絞り込む装置として機能し続け、最高裁が幅広く救済する判決を言い渡しても、政府は基準を見直さない。このため司法に助けを求める動きが繰り返される。
被害の実態も本当のところはわかっていない。民間医師団が自分たちの検診活動の結果と政策とのギャップに驚き、住民たちの広範な健康調査の必要性を訴えても、政府が一切応じないからだ。高齢になって症状の悪化を訴える被害者は少なくないが、その日常を支える体制も十分とはとても言えない。
人の生命や健康よりも産業の振興が優先され、政官産学のもたれ合いの中で真相が覆い隠される。それが水俣病の歴史だ。そしてそのゆがんだ構造は、克服されないまま日本社会の中に厳然としてある。
公害病認定から半世紀。「水俣病」は終わっていない。

(大弦小弦)県知事選挙を前に首里東高校で開かれた3年生対象の・・・ - 沖縄タイムズ(2018年9月30日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/322334
http://archive.today/2018.09.30-010718/http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/322334

県知事選挙を前に首里東高校で開かれた3年生対象の主権者教育の授業を見学した。「どんな人に投票したいか」の問いに返ってきたのは「県民の意見を尊重してくれそうな人」「何かを変えてくれる人」など素直な答えばかり

▼クラス34人中18歳が17人と半数で、生徒たちにとり選挙は既に身近なものになっている。一方で「民主主義を日々の生活で感じることは少ない」とも

▼沖縄の住民が初の主席公選で民主主義を実感したのは、ちょうど50年前。他の都道府県で知事が選ばれてから21年もたった後だった。沖縄では、地域の未来を住民が選ぶ「自治」は神話だと決めつけられたこともあった

▼県知事の仕事は自治を実現できるかにある。多くの人々の声を吸い上げ、よりよい地域をつくること。それに尽きる。高校生の回答にもあるように

▼「知」という漢字には、祭事の用具として矢をそなえて天の声を聞き、神に誓う意味があるとされる。中国で「知事」が統治者の役職名として使われるようになったのは、10世紀に成立した宋代の時期という

▼太平洋戦争が終わるまで、日本の知事は中央政府という「天」に従う存在だった。時代は下り現代の知事が耳を傾けるのは、1票を等しく手にした有権者の声。きょうは4年に1度、主権が私たちの手の中にあることをあらためて確認する日だ。(玉城淳)

<金口木舌>台風を超えて - 琉球新報(2018年9月30日)

https://ryukyushimpo.jp/column/entry-810472.html
http://archive.today/2018.09.30-010510/https://ryukyushimpo.jp/column/entry-810472.html

あらゆる所で「台風」が吹き荒れている。性的少数者に対する偏見に満ちた見解を月刊誌に寄稿した自民党杉田水脈(みお)衆院議員。援護する企画まで掲載した「新潮45」は休刊に。多くの人を傷つけたことを認識するべきだ
角界の「台風の目」になったのは貴乃花親方。日本相撲協会との対立が続いたことによる「引退」の決断だろうが、弟子の今後を含め影響は大きい。話し合いで溝を埋める努力は十分なされたのか
▼沖縄地方は文字通り台風の直撃を受けている。きょう投開票される県知事選でも県民を翻弄(ほんろう)した。選挙では全有権者が権利を行使できる環境を確保しなければならない。琉球新報は28日付紙面で、車いす利用者に対する投票所の対応状況を調べた
▼少なくとも67カ所で利用が困難だと分かった。県脊髄損傷者協会理事長の仲根健作さんは、設備が整う商業施設での期日前投票を呼び掛けた。週末は人が多くて利用しにくい状況もあったため、商業施設や図書館での投票所がさらに増えることが願いだ
悪天候は障害のある人の投票機会をさらに狭める。郵便による不在者投票などの制度はあるが広く知られていない。仲根さんは「各自治体が積極的に告知してほしい」と求める
▼30日は投開票日。対話を大事にし、偏見や差別がなく、全ての県民が暮らしやすい社会を築いていける知事の誕生を期待する。