女性 子ども 死体の山 佐世保空襲を経験・江島麗介さん(86) - 東京新聞(2018年8月12日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081202000124.html
https://megalodon.jp/2018-0812-1127-50/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081202000124.html

十三歳の少年は空襲のさなか、一人で家を守ろうとした。縁側から、隣町が焼けるのが見える。「うちも焼けるかも」。焼夷(しょうい)弾が落ちても火を消そうと、木の棒に縄をつけた「火たたき」をしっかり握った。
長崎県佐世保市の廃校の教室を活用した「佐世保空襲資料室」で、私は江島麗介さん(86)の話を聞いた。佐世保は私が生まれた街。再現された「火たたき」を手にしながら「これで本当に火を消せるんですか」と聞くと、江島さんは「無理でしょうね」と笑った。
降りしきる強い雨の中、一九四五(昭和二十)年六月二十八日の深夜から翌日未明にかけ、佐世保市の中心街が空襲に遭った。長男の江島さんは母や弟、妹ら五人を防空壕(ごう)に残して家に戻った。「俺は国を守る。おまえは家を守れ」。そう言って軍の施設に向かった父との約束を果たすために。爆撃で街は昼間のように明るかった。
幸い、自宅も家族も無事だった。だが夜が明け、おじが空襲で亡くなったと聞き、走っておじの家に向かった。途中のトンネルが、わらのむしろで隠されていた。隙間から女性と子どもの死体が何人も重なっているのが見える。「前からも後ろからも空襲の熱気が来て、逃げられなかったのだろうね」。中に入る勇気はなく、引き返した。
数日後、近くの山で遺体を焼く手伝いをすることになった。親族らが涙ながらに遺体を運んでくる。大人が頭の方、江島さんが足首を持って遺体の山に放り投げ、よく燃えるように薪(まき)も投げた。「もちろん、気持ちが良いものではない。それでも、大人の命令だったので夢中でやりました」
梅雨の湿気で傷んだ数百もの遺体から異臭が漂う中、周囲にガソリンがまかれ、火が付けられた。底の方からじわじわ焼けていくのを見ていられず、その場を立ち去った。「人間の最後の哀れさを感じました」

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海軍の基地近くに住み、「軍国少年だった」という江島さん。緑の軍服が「格好良い」と陸軍に憧れ、中学に入学後すぐに陸軍幼年学校を受験した。不合格となり、翌年に再び受けようと考えていたところ、終戦。米軍が進駐し市役所に星条旗がはためいた。「悔しかったよ。占領されたって思った」
長い間、「思い出すことがつらい」と戦争体験を話さなかった。中学教諭を退職した六十歳ごろ、自分より上の世代が亡くなっていくことに危機感を覚え、語り部を務めるように。毎年、空襲のあった六月末に小中学校で体験を伝えている。「子どもに伝えることで、自分でも『戦争はよくない』という思いが増してきました」。時に軽やかに、笑顔で体験を語ってくれるのは、七十三年の長い月日の流れがあってこそなのだと感じた。

   ◆

私が産声を上げた産婦人科の病院は、B29の編隊が飛んだ真下だった。私が部活動でサッカーに明け暮れていた十三歳の夏、江島さんは遺体を焼く手伝いをさせられていた。多くの人が犠牲になり、復興した土地で私は生まれたのだ。

「人からされて嫌なことはしない。この単純な言葉を守りさえすれば、平和は保たれるんです」と江島さんは語る。どれだけの人が、それを守っているだろうか。ヘイトスピーチやいじめなどの問題は、この「単純な言葉」で解決できる。一人一人の小さな意識が平和をもたらす。生まれた土地で、私は初心に戻った気がした。

佐世保空襲> 佐世保空襲犠牲者遺族会佐世保市によると、米軍のB29爆撃機141機が1945年6月28日午後11時58分、空襲を予告する「警戒警報」が鳴る前に襲来。翌29日未明までの約2時間、爆撃した。市内の約35%にあたる1万2037戸が全焼し、1242人が犠牲となった。同市では6月29日を「佐世保空襲の日」とし、毎年追悼式を行っている。

広島で平和の誓い 天皇陛下「信念養う」 元東宮侍従、日誌に書き残し - 東京新聞(2018年8月12日)

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皇太子時代の天皇陛下の側近だった人物が、太平洋戦争終結前後の混乱期、陛下の教育について周囲が検討する様子を日誌に書き残していたことが分かった。本紙が入手した日誌には、陛下が原爆投下から四年後の広島で語った、平和希求の原点と言える言葉も記されている。 (小松田健一)
日誌を書いたのは、栄木(さかき)忠常さん(一九〇九〜九五年)。東京帝国大卒業後、宮内省学習院の事務官などで皇室にかかわり、終戦直前の四五年八月十日、陛下を支える東宮職の発足と同時に東宮侍従に就任し、五〇年三月まで務めた。
本紙は栄木さんの長男で学習院初等科から高等科まで陛下の学友だった栄木和男さん(84)から、終戦前後の日誌の一部の提供を受けた。日々の業務や陛下の動静、側近たちの発言などが書き残されていた。
陛下は学習院高等科一年だった四九年四月六日、広島市を訪問。日誌には「人類が再びこの惨劇を繰り返さないよう、固い信念と覚悟を養いたい」「私の責任をよく自覚して勉強と修養に努力していく」などと、地元青少年の前で述べたあいさつの要旨が書き残されている。公式の場で話すのは初めてだった。
終戦前後の様子もある。四五年八月十五日の昭和天皇の「玉音放送」は、疎開先の栃木県・奥日光で陛下と同じ部屋で聞いたといい、側近らが涙ながらに放送を聞く様子を書いた。
二十四日には、今後の陛下の住まいと教育の地に長野県・松代(現・長野市)が候補に挙がる。松代は戦中、政府中枢の移転を想定した松代大本営が建設されていた。忠常さんは「将来日本を興すべき青少年の教育場所としては健全なる田舎の剛健なる還境(原文のまま)に限る」「殿下の御教育地として適当」などと賛同意見を記した。
実際には陛下は十一月、奥日光から帰京し、四六年四月、現在の東京都小金井市に移転していた学習院中等科へ進学した。
四六年一月十七日には、四、五年後に英国と米国へ留学する構想が記された。実現しなかったが、陛下は五三年に英国女王エリザベス二世の戴冠式へ出席、その機会に欧米十四カ国を訪問し、見聞を広めた。

◆人物像知る手掛かり
<瀬畑源(はじめ)・長野県短大准教授(日本現代史)の話> 今の天皇は側近の日記などが複数残る昭和天皇と異なり、文書となった一次史料が少ない。歴史的に重要な新事実は見当たらないが、当時皇太子だった天皇の周辺がどのような思いで教育に携わったのかや、天皇の人物像を知る手掛かりとなる。混乱期に前例がない中、自分たちが何とかしなければという職務に対する重みも感じる。

週のはじめに考える 米騒動と新聞の役割 - 東京新聞(2018年8月12日)

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明治百五十年の今年は「米騒動」から百年の節目でもあります。富山県で始まり、内閣を退陣に追い込んだ大衆運動に、新聞が果たした役割を考えます。
一九一八(大正七)年七月のことでした。富山県の魚津や滑川など日本海沿岸の漁村に住む女性たちが、米穀商などに押しかけ、コメの船積みをやめ、安く売るよう求めて、声を上げました。
米価は、日本軍のシベリア出兵を見越した米穀商の投機的買い占めや売り惜しみで急騰、男性たちが出稼ぎで向かった北洋は不漁で残された女性たちは生活難に陥っていました。「女一揆」と呼ばれた米騒動の始まりです。

◆地元紙の記事を機に
この動きをまず報じたのは地元紙の「高岡新報」でした。続いて大阪朝日、大阪毎日両新聞が伝えて、全国に発信されたのです。
新聞報道とともに騒ぎは西日本中心に全国三百六十八市町村に広がります。工場や農村、炭鉱地帯で争議や暴動が起こり、示威行動は一カ月半以上も続きました。名古屋では延べ数万人が暴動に加わり、東京・日比谷公園では数百人の人々が騒動を起こしています。
こうした動きに危機感を覚えたのが当時の寺内正毅内閣でした。
民心をなだめようと外米の緊急輸入や白米の廉売政策で米価の安定を図るとともに、救済のために天皇家や財閥、富豪などから寄付金を募ります。
一方、騒乱鎮圧には警官隊に加え、軍隊も出動させました。二万五千人以上を検挙、七千七百人以上を起訴し、死刑二人、無期懲役十二人など、厳罰で臨みます。
寺内内閣は、騒動を報じる新聞にも圧力をかけます。八月七日付の高岡新報を発禁処分としたのに続き、十四日には水野錬太郎内相が全国の新聞に対して、米騒動の報道を一切禁じます。

◆「報道禁止」に猛反発
これに激しく憤ったのが、当時の新聞記者たちでした。
本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ、名古屋新聞の小林橘川(のちの名古屋市長)は米騒動を「米価内乱」と位置づけ、寺内内閣の一連の措置を批判。「無能、無知、無定見の政府」に一刻も早い退陣を迫りました。
もう一つの前身、新愛知新聞で編集、論説の総責任者である主筆桐生悠々も筆を執り、八月十六日付新愛知朝刊は「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」との見出しの社説を掲載します。
「現内閣の如(ごと)く無知無能なる内閣はなかった。彼らは米価の暴騰が如何(いか)に国民生活を脅かしつつあるかを知らず、これに対して根本的の救済法を講ぜず」「食糧騒擾(そうじょう)の責(せめ)を一にこれが報道の責に任じつつある新聞紙に嫁し」「今や私どもは現内閣を仆(たお)さずんば、私ども自身がまず仆れねばならぬ」
悠々は寺内内閣の打倒、言論擁護運動の先頭に立ちます。八月二十日には愛知、岐阜、三重三県の新聞、通信各社の記者に呼びかけて、名古屋市内で「東海新聞記者大会」を開き、内閣打倒と憲政擁護、言論の自由を決議しました。
悠々の社説に呼応するかのように、内閣弾劾の動きは大阪や東京などにも広がり、報道禁止令は実質的に撤回されました。寺内首相は九月二十一日に辞表を提出し、次に組閣を命じられたのが原敬です。爵位を持たない平民宰相、初の本格的な政党内閣の誕生です。
米騒動の始まりは女性たちの非暴力的な抗議行動でした。全国に広がるにつれて一部暴徒化しましたが、背景にあったのは第一次世界大戦による好景気を実感できず格差に苦しむ民衆の不満です。
戦後、首相の座に就いた石橋湛山は当時、米騒動に関し、東洋経済新報の社説で「政府がその第一任務たる国民全体の生活を擁護せずしてかえってこれを脅かしこれを不安に陥れた」と、時の寺内内閣を厳しく批判し、一連の騒動について「時の政治機能が旧式、不適、行き詰まりに陥れば、イツでも必然的に起こらねばならぬ重大なる性質、深甚なる意味を有する」と分析します。(「石橋湛山評論集」岩波文庫

◆国民の声伝える覚悟
米騒動は、人々の不満がジャーナリズムと結び付いて、時代の歯車を大きく動かした大衆運動でした。後に「大正デモクラシー」と呼ばれる動きの中心的な出来事であり、納税額に関係なく選挙権の獲得を目指す「普通選挙運動」にも勢いをつけました。
それから戦争の時代を挟んで百年が経過し、私たちは今、政権に批判的な新聞との対決姿勢を強める安倍晋三政権と向き合います。
成長重視の経済政策で一部の者だけが富み、格差が広がる時代状況は米騒動当時と重なります。そうしたとき、私たち新聞は権力におもねることなく、国民の声を伝え続けなければなりません。その覚悟も問われる米騒動百年です。

日中友好40年と議員外交 発展を後押しするために - 毎日新聞(2018年8月12日)

https://mainichi.jp/articles/20180812/ddm/005/070/003000c
http://archive.today/2018.08.12-023313/https://mainichi.jp/articles/20180812/ddm/005/070/003000c

日本と中国の両政府が平和友好条約に署名したのは、40年前の8月12日だった。発効は10月23日だ。
条約は、日中友好を土台に「アジアと世界の平和と安定に寄与する」とうたっている。
経済関係や人的交流は深まったが、歴史認識や安全保障の対立によって政治関係の停滞や悪化が繰り返されてきた40年でもあった。
1972年の国交正常化から6年後に策定され、米ソ冷戦下でアジアの秩序を大きく変えた条約だ。
交渉は難航したが、対立点を解消していく過程で重要な役割を果たしたのが、議員外交だった。
当時、自民党内は条約反対の親台湾派が強かったうえ、「全方位外交」を掲げる福田赳夫首相がソ連に配慮し、身動きがとれなかった。
このため、自民党親中派議員や超党派日中友好議員連盟公明党幹部らがシャトル外交を展開して中国側の意向をくみ取ったという。
日本の対中外交も模索の時期だったのだろう。だが、議員や財界人の交流が活発化し、豊富な人脈を築くきっかけにもなった。
2012年の日本の尖閣諸島国有化後に悪化した関係は改善に向かいつつあるが、「正常な軌道」(李克強中国首相)に戻ったに過ぎない。
尖閣や台湾に加え、中国の海洋進出や日本の政治家の靖国神社参拝が両国間のトゲとなり、政治関係を阻害している状況は変わらない。
10月に安倍晋三首相が訪中し、来年6月には中国の習近平国家主席の初来日が想定されている。習主席は国賓として招かれ、新天皇と面会する可能性もある。
首脳往来による関係強化は重要だ。ただ、気になるのは親中派の政治家の引退が相次ぎ、対中人脈が先細りしていることだ。中国だけでなく、米国や韓国ともそうだ。
安倍政権は近隣の中韓両国との関係を悪化させる一方、核戦力を強化し保護主義に走るトランプ米政権を強く批判してこなかった。
外交は内閣が責任を負う。議員の過度な介入には弊害もあろう。しかし、条約の承認などを通じ国会は政府の外交を監視する責任がある。
根深い問題を解決し、発展につなげるには、政府を補完する重層的な外交が必要だ。

原賠法の見直し先送り まさかに備えぬ責任放棄 - 毎日新聞(2018年8月12日)

https://mainichi.jp/articles/20180812/ddm/005/070/002000c
http://archive.today/2018.08.11-210704/https://mainichi.jp/articles/20180812/ddm/005/070/002000c

原発の過酷事故で生じる膨大な賠償金のリスクに、これでは対応しきれない。
政府が、原発事故に備え電力会社に用意を義務づけている賠償金(賠償措置額)を現行の最大1200億円に据え置く方針を表明した。
福島第1原発事故では、賠償額が8兆円を超え、原子力損害賠償法に基づく措置額を大幅に上回った。このため、原賠法の見直しを議論していた内閣府の専門部会は、措置額を引き上げることで一致していた。
だが、引き上げは電気料金の値上げにつながる。電力会社は、民間保険と政府との補償契約で措置額を手当てしており、保険料や補償料の増額が必要となるからだ。これを嫌う電力会社は国費投入を求めたが、世論の反発を恐れた政府は受け入れず、調整作業は難航した。
政府の補償契約の更新時期が来年末に迫っており、事実上の時間切れで引き上げは見送られた。
電力会社と政府が事故の賠償リスクの責任をなすり付けあう構図だ。そうした中で、原発の再稼働がなし崩し的に進んでいる。これでは、原発安全神話がまかり通った3・11前と何ら変わりがない。
政府は福島第1原発事故を受け、東電に措置額を上回る賠償費用を融資し、東電と大手電力が協力して返済する相互扶助の制度を作った。
原賠法は措置額とは関係なく、上限無しで電力会社に賠償金の支払いを義務づけているためで、新たな事故が起きた場合も、この制度を活用して対応する方針だ。
しかし、電力自由化でお互いが競争相手となる中、電力会社の相互扶助がいつまで続くか不透明だ。
電気事業法改正で、電力会社は国への届け出だけで解散ができるようになった。事故を起こした電力会社が経営に行き詰まって法的整理を選択すれば、賠償が滞る恐れもある。
政府は、原発を「重要なベースロード電源」と位置付け、原子力規制委員会の審査に合格した原発は再稼働を進める方針だ。その一方で、現状では、原発の過酷事故に対する賠償措置の枠組みが不十分なまま放置され続けることになる。
あれほどの事故を経験しても、まさかへの備えを強化しない政府や電力会社の姿勢は筋が通らない。

(翁長知事 苦闘4年)バトン継ぎ前に進もう - 沖縄タイムズ(2018年8月11日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/297253
http://web.archive.org/web/20180811110414/http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/297253

衆院本会議の代表質問で今年1月、野党議員が沖縄で相次いだ米軍機の事故やトラブルを取り上げ、政府を追及した。
「それで何人死んだんだ」 議場にいた松本文明内閣府副大臣(当時)からヤジが飛んだ。
自民党議員の無知・無理解は県民の心をいてつかせた。
「何人死んだら動くのか」 住民の怒りの声を、当時、何人もの人から聞いた。
この一件を思い出したのは、翁長雄志知事が亡くなったというのに、政府が新基地建設に向け埋め立て地への土砂投入を実施する姿勢を変えていないからだ。
膵臓(すいぞう)がんに侵された翁長知事は、土砂投入を止めさせようと、東京での治療を勧める周囲の助言を振り切り、最後まで埋め立て承認撤回の機会を模索し続けてきた。
7月27日、撤回手続きに入ることを正式に表明し、その12日後の8月8日、生きる気力と体力をすべて使い果たして旅立った。
理不尽な基地負担を拒否し、命を削るように、政府と対峙(たいじ)し続けた壮絶な死だった。
政府は、そんないきさつを無視して、計画通り土砂投入を強行するつもりなのか。

■    ■

翁長氏は2014年11月の知事選で、辺野古反対の公約を掲げ、現職知事に10万票近い大差をつけて当選した。
直後の衆院選でも、4選挙区のすべてで辺野古反対を掲げる候補が当選した。保革を超えた新しい政治勢力を組織化したのは翁長氏である。
安倍官邸と自民党は翁長氏を敵視し、事あるごとにいじめ抜く。当選あいさつのため年末年始に安倍晋三首相や菅義偉官房長官に会おうとしたが会えず、そのような状態が3月末まで続いた。
普天間問題の原点とは何か。菅官房長官との協議で翁長知事は強調している。
「戦争が終わって、普天間に住んでいる人たちが収容所に入れられている間に土地を強制的に接収され、米軍の飛行場ができた」
「自ら奪っておいて、それが老朽化したから、また沖縄県で(新基地を)差し出せというのは、これは日本の政治の堕落ではないか」

■    ■

官房長官との初会談では、菅氏の口癖だった「粛々と」という言葉遣いを上から目線だと批判した。
だが、政府との議論はまったくかみあわなかった。政府は「司法での解決しか選択肢はない」として話し合い解決を拒否し続けた。
15年5月、沖縄セルラースタジアム那覇で開かれた新基地建設に反対する県民大会で翁長氏は訴えた。
安倍晋三首相は『日本を取り戻す』と言っているが、そこに沖縄は入っているのか」
辛(しん)らつな政府批判を続ける一方、集会に参加した県民に対しては「グスーヨー、マキテーナイビランドー」(皆さん、負けてはいけない)と鼓舞し続けた。
翁長氏は15年9月、国際NGOの発言枠を譲り受ける形で国連人権理事会で発言する機会を得、短い声明を読み上げた。
「沖縄の自己決定権がないがしろにされている辺野古の状況を世界中から関心を持って見ていてください」

■    ■

超党派参議院メンバーが来県し、基地を抱える市町村長と意見交換したとき、ある参議院議員はこう語ったという。
「本土が嫌だと言っているんだから、沖縄が受けるべきだろう。不毛な議論はやめようよ」
翁長氏はこのような本土側の無理解とも向き合わなければならなかった。「魂の飢餓感」という言葉を使って現状を表現したこともある。
妻の樹子さんによると、翁長氏は当選時「万策尽きたら夫婦で一緒に座り込もう」と約束していたという。
翁長氏が政治家としてすべてをかけて守り抜いたバトンをしっかり引き継ぎ、広げていくこと−。
きょう11日、那覇市で予定されている新基地建設断念を求める県民大会は、そのことを確認する大切な場になるだろう。

<金口木舌>「海波を揚げず」。波が立たない「穏やかな海」から転じ、平和な・・・ - 琉球新報(2018年8月12日)


https://ryukyushimpo.jp/column/entry-780514.html
http://archive.today/2018.08.12-023838/https://ryukyushimpo.jp/column/entry-780514.html

「海波を揚げず」。波が立たない「穏やかな海」から転じ、平和な世を表す慣用句。故事に由来し、中国語で「海不揚波」と書く。平和を願う思いは対岸の人々も同じだ

▼中国福建省福州市にある琉球館に、この言葉が額で飾られている。2013年、尖閣の領土問題の取材で訪ねた際、現地職員が説明した。「琉球や福州の人々が往来する時の安全な航海への願いが込められている」
▼きょうは日中友好条約締結から40年。条約は互いに覇権を求めず、領土保全の相互尊重などをうたう。72年の日中共同声明では「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えない」と国交を正常化した
▼15世紀ごろまでに設置された琉球館は、沖縄の人々の宿泊地として利用された。名護市辺野古の新基地建設をめぐる県と国の訴訟で、8日に亡くなった翁長雄志知事も意見陳述で触れた
▼古くからアジアで交易する沖縄の将来像として、アジアの懸け橋になると唱えた。先月27日、辺野古埋め立ての承認撤回を表明した会見でも熱っぽく語った。最後の公の場で「アジア」と発すること14回
▼基地建設を強行する政府に「日本がアジアから締め出される」と危機感も示した。きのうの県民大会で、知事が座るはずのいすには辺野古の海をイメージした色の帽子が置かれた。青い海を荒波で白く濁らせてはならない。そんな声が聞こえた。