<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後73年> 満州敗走 母子救えず - 東京新聞(2018年8月11日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081102000136.html
https://megalodon.jp/2018-0811-1305-40/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081102000136.html

「円匙(えんぴ)でタコツボを掘ってね。ここが自分の死に場所になると思ったよ」
東京都江戸川区の稲川寅男さん(94)の自宅を訪れた私は、聞き慣れない言葉に少し戸惑った。入社四年目で初めてとなる戦争体験の取材。スコップ(円匙)で縦穴(タコツボ)を掘り、ソ連軍との戦闘を迎えた七十三年前の夏の体験に、じっと耳を傾けた。
一九四五(昭和二十)年八月九日、ソ連軍が満州(現・中国東北部)に侵攻。関東軍の歩兵第三七〇連隊に所属していた稲川さんは、牡丹江近郊で日本人開拓民の保護を命じられた。
十三日昼、縦穴に身を潜める中、ソ連軍の戦車がごう音と共に街道を進んできた。武器・弾薬は欠乏し、最新鋭の戦車に対抗できる状況にない。仲間たちが縦穴から飛び出し、爆弾を抱えて戦車に飛び込む肉弾攻撃を仕掛けたが、厚い鉄板に覆われた戦車が一瞬、宙に浮いただけだった。
十四日は、遮るものがない草原での銃撃戦。「ヒュン、ヒュン」。銃弾が顔の近くをかすめ、兵士たちが次々と倒れた。「稲川、本部に上がれ!」。丘の上にある本部との連絡係だった稲川さんは、上官の命令で伍長と交代して前線を離れた。翌十五日まで戦闘が続いた後、部隊は撤退。日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したことも知らなかった。伍長はその後、戦死したという。

      ◆

死と隣り合わせの経験は、平成生まれの私には想像ができない世界だった。
学校を出て会社員をしていた稲川さんは二十歳を迎えた四三年に徴兵され、ソ連との国境警備の部隊に配属された。「お国のために戦う自負があった」。だが、実際の戦闘では撤退を余儀なくされ、山の中を逃げ回った。
「前線で死んでいれば、こんなつらい思いをしなくて良かったのに、と悔やんでね」。やや早口で話す稲川さんがある場面を思い出した時、重い口調に変わった。
「助けて」。夜に山中を移動していると、ぼろぼろの和服を着た開拓民の女性と遭遇した。衰弱しきった様子で赤ん坊を抱き、かぼそい声で懇願された。「子どもだけでも連れていって」。だが、ソ連軍の追撃におびえ、食料も枯渇した稲川さんは数十人の兵士とともに立ち去った。
開拓民保護の命令、国のために戦う自負…。実際は自分の命を守ることしかできなかった。しばしの沈黙の後、稲川さんは続けた。「罪のない市民や下っ端の兵士が犠牲になる戦争は、やっぱりおかしい」
九月末にソ連軍に捕まり十一月にシベリアの捕虜収容所に連行された。二年近く労働を強要され、四七年九月、引き揚げ船で京都府舞鶴港に戻った。帰還後、三つ上の兄の戦死を知らされ、無念さが込み上げた。

      ◆

取材の後、稲川さんに駅まで見送ってもらった。日差しが照り付ける中、「毎年夏になると、からっとした暑さだった満州を思い出すよ」とつぶやいた。
隣を歩きながら考えた。七十三年前の戦地で私は生き残れただろうか。女性と赤ちゃんを助けただろうか。個人の力量や思いなどを超えた戦場の残酷さ。想像すら難しいが、忘れてはいけない過去がある。「生きて帰れたことは運が良かった。平和に幸せに暮らせることがありがたい」。そう話す稲川さんの思いを、伝えていくことはできる。(大島宏一郎(26歳)整理部)

ソ連の対日参戦> 1945年8月8日にソ連が日ソ中立条約を破棄して宣戦布告し、9日に満州(現・中国東北部)に侵攻。関東軍の大半が敗走した。当時の満州には約155万人の日本人が暮らしていたが、戦闘や病死、餓死などで約24万人が犠牲になったとされる。

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平成最後の夏。時代が移り変われば、昭和はさらに遠ざかっていく。それでも、上書きしてはいけない歴史がある。今年も若手記者たちが戦争の体験者に出会い、悩み、考えた。

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太平洋戦争 徴用船「まるで特攻」 92歳の元乗組員 - 毎日新聞(2018年8月11日)

https://mainichi.jp/articles/20180811/k00/00m/040/226000c
http://archive.today/2018.08.10-233630/https://mainichi.jp/articles/20180811/k00/00m/040/226000c

撃沈3度、死と隣り合わせ 仲間、いまだ海の底
太平洋戦争では、国家総動員体制の下、兵隊や武器などの輸送のために民間船が徴用され、多くの船員が命を落とした。徴用船の乗組員だった吉田香一郎さん(92)=大阪府吹田市=も、連合国側の攻撃によって乗っていた船が3度沈没し、多くの仲間を失った。「ほとんど丸腰で危険な海に出され、まるで特攻に行くようだった」と振り返る。
吉田さんは戦時中、日本郵船経理関係の仕事をしていた。しかし、戦局の悪化で船員が不足し、1944年1月に海上勤務を命じられた。当時はまだ18歳。戸惑いはあったが、「同じ年ごろで軍隊に取られている人もいるのだから、仕方がない」と受け入れた。
待っていたのは、軍人と同じように死と隣り合わせの仕事だった。海へ出るようになって約8カ月後。門司港(現北九州市)から中国の上海に兵隊を運んでいたところ、潜水艦の魚雷を2発受けて船が沈んだ。救命艇で命からがら脱出すると、すぐに別の徴用船での勤務を命じられた。出航の度に不安になったが、拒否はできなかった。
2度目の沈没は「九死に一生」の体験だった。45年2月、重油を載せてシンガポールから日本へ航行中、ベトナム沖で、魚雷攻撃を受けた。衝撃と同時に船体が傾き、甲板にいた吉田さんは海に放り出された。
板きれにしがみついて南シナ海を漂った。一緒に浮いていた仲間たちは次々に力尽きていった。「眠ったらおしまいだ」。自分に言い聞かせて何とか意識を保ち、約10時間後に日本軍の艦艇に救出された。乗組員のほぼ半数の29人が、船と一緒に海に沈んだ。
終戦の1カ月ほど前には、関門海峡に仕掛けられていた機雷に船が触れて沈没。もはや安全な海域などなくなっていた。だから、終戦を知った時には心底ホッとした。「これで死ぬこともなくなったんだな」
戦後73年がたったいまも、多くの仲間の遺骨は海底に眠ったままだ。3度も船が沈められながら、自分が生き延びられたのは奇跡に近い出来事だと改めて思う。「狂気に支配され、命が軽んじられた。あんな時代が二度とあってはいけない」【岡崎英遠】
徴用船員、軍人より高い死亡率
1941年に日米が開戦すると、食料や資源などを海上輸送する船が不足した。このため政府は、あらゆるものを国の統制下に置くため38年に制定された「国家総動員法」に基づき、民間商船や船員の大半を徴用し、兵隊や武器の輸送まで担わせた。
公益財団法人「日本殉職船員顕彰会」(東京都)などによると、終戦までに約2500隻の商船が沈められ、漁船なども含めると7000隻を超える民間船が失われた。約6万人の船員が犠牲となり、そのうち3割ほどは未成年だった。死亡率は推計で43%に達し、約2割とされる陸海軍の軍人と比べても、生命の危険が大きい任務だったと言える。
顕彰会の岡本永興理事は「島国である日本は、拡大した戦線を維持するのも資源を確保するのも海上輸送が生命線だった。だが、まともな護衛も付けずに、徴用船を次々と危険な海域に送り出した結果、大きな犠牲を招いた」と指摘する。【岡崎英遠】

文科省へ救済の要望書 東京医科大不正 参院会館で集会 - 東京新聞(2018年8月11日)

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https://megalodon.jp/2018-0811-1308-02/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081102000139.html

東京医科大の不正入試で女子受験生が差別的な扱いを受けていたことに抗議する緊急集会が十日、東京・永田町の参院議員会館で開かれた。元受験生や支援者らでつくるグループのメンバーも出席し、文部科学省の担当者に同大への指導や救済策をただす要望書を手渡した。
要望書では、文科省としての今回の問題の受け止めや、差別防止に向けた今後の取り組みについても尋ねている。
文科省の担当者は今月二十四日までに、同大を含む全国の大学医学部の入試を対象とした緊急調査を実施し、結果を公表する方針を説明した。
担当者は差別は許されないとの考えを示した上で、入試のやり方については大学の自治との兼ね合いで判断が難しい面があるとして「いろんな意見を聞きたい」と述べるにとどまった。
集会は市民有志でつくる実行委が主催し、約百三十人が参加した。
作家の北原みのりさん(47)は「何よりも優先されるべきは被害者の救済だ」と指摘。弁護士の打越さく良さん(50)は「女性の学問の自由を損なっている」と怒りをあらわにした。
集会の最後には、三年ほど前に同大を受験して不合格となり、別の大学の医学部に通う女性のメッセージを紹介。「問題の根底には医師の過剰労働がある。入試にとどまらず、医師の働き方についても改まることを願う」と女性の思いを代弁した。 (松尾博史)

文科省の全国ブロック塀調査 命守るため早急に撤去を - 毎日新聞(2018年8月11日)

https://mainichi.jp/articles/20180811/ddm/005/070/137000c
http://archive.today/2018.08.11-040950/https://mainichi.jp/articles/20180811/ddm/005/070/137000c

ことは子供の命に関わる。早急に安全を確保せねばならない。
大阪府北部地震で、高槻市の小学生がブロック塀の下敷きになり死亡した事故を受けて、文部科学省が全国の幼稚園から高校まで約5万校を対象にした調査結果が公表された。
ブロック塀は全国の4割に当たる約2万校で使われていた。目視調査で、このうちの6割に当たる約1万2600校で高さや強度が建築基準法に適合しない危険な状態だった。
外観に問題がないブロック塀でも、鉄筋が正しく入っているかどうかなど、内部を確認していない学校が7割以上もあった。調査への報告や点検すらしていない学校も1000校近くある。
安全が最優先の学校であるにもかかわらず、危険な塀が放置されていることに驚かざるを得ない。
日本では全国どこでも地震が起きる。高槻市のような悲劇が、いつ起きてもおかしくない状況だ。
文科省は学校の耐震化を校舎や体育館といった建物や天井などを中心に進めてきた。ブロック塀対策が不十分だったことは否めない。
同省は3年前、学校の建物以外の耐震化ガイドブックを出したがブロック塀は入っていなかった。耐震化調査の対象でもなく、教育委員会や学校も注意が不足していた。
大阪の地震を受けて、すでに学校から撤去した自治体もある。もはやブロック塀を別の材料にすることに議論の余地はない。植栽にしたり、軽量フェンスへ置き換えたりする対応をすぐに始めるべきだ。
アルミ板やネットフェンスなど比較的安価に設置することも可能だ。
自治体は早急に予算を手当てすべきだ。政府は撤去費や代わりの材料を設置する補助金をさらに拡充するなど、自治体を支援する手当てを講じる必要がある。
児童生徒の安全確保は学校内だけではない。校外の通学路にどれだけ危険なブロック塀があるのかも丁寧に調べ、対応しなければならない。
ブロック塀が倒壊すれば、住民の避難や救護活動にも大きな障害になる。戸別訪問し所有者に撤去を促したり、軽量フェンスに替える費用を補助したりする自治体もある。
地域でブロック塀の危険について情報を共有したい。

東京医大入試不正 得点調整は1校だけか - 琉球新報(2018年8月11日)

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-780096.html
http://archive.today/2018.08.11-041117/https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-780096.html

東京医科大の一般入試で女子受験者の点数を一律に減点していた問題は、組織ぐるみの裏口入学疑惑へと発展した。一部の受験生に点数を加えて合格者を不正に調整していたことを、弁護士3人で構成する内部調査委員会が認定したのである。
報告書によると、400点満点の1次試験で、2017年度は13人に45〜8点、18年度は6人に49〜10点を加点している。
入試委員会に採点結果を提出する前の段階で、リストに基づき不正加算した成績表を作成していた。得点調整が明るみに出るのを恐れたためだ。同窓生の子弟を増やすよう同窓会から圧力があったことも一因とされる。
依頼された受験生が合格した場合、大学に寄付金を納めてもらうだけでなく、前理事長、前学長が個人的に謝礼を受け取ることもあったようだ。大学のトップを窓口として裏口入学が行われていたことになる。
2次試験の小論文(100点満点)では少なくとも06年の入試から、現役、浪人、男女の属性による得点調整が繰り返された。18年度は全員に0・8の係数をかけたうえで、現役、1浪、2浪の男子に20点、3浪の男子に10点を加点している。女子と4浪の男子に加点はない。
報告書は、性別を理由とする得点調整を「女性差別以外の何物でもない」と指弾し、受験生に知らせないまま受験回数の少ない人を優遇した措置を「受験生に対する背信行為」と断罪した。
受験生が「試験の公平性を損なう行為」をすれば成績が全て無効になると募集要項でうたいながら、理事長や学長は不正を働いていた。内部調査委が指摘する通り「大学の自殺行為」にほかならない。
本当なら合格していたはずなのに不合格とされ、医師への道をあきらめた人がいたかもしれない。人生設計を狂わせた罪は大きい。
東京医科大は、得点調整で不合格にした受験生に謝罪し、希望があれば速やかに追加合格させるべきだ。彼らが被った損害についても補償が必要になるだろう。
医師は、高い倫理観と使命感が求められる崇高な職業だ。人の命をあずかる責任の重さから「聖職」と呼ぶ人もいる。
医学部の入試は医師になるための最初の関門である。不正な加点は、医師という職業に「裏口」を設けるに等しい。それによって資質に乏しい医師が量産されるなら、日本全体の医療水準を低下させかねない。
文部科学省は全国の国公私立大医学部医学科を対象に、入試の公正な実施に関する調査を始めた。男女別、年齢別の合格率を報告させ、大きな開きがあれば理由を示すよう求めている。得点調整は東京医科大だけなのか。他の大学にもあるのなら、根絶しなければならない。

<金口木舌>幼い頃の夏の夜、畳間に寝ていると、障子の向こうに雪女が現れる・・・ - 琉球新報(2018年8月11日)

https://ryukyushimpo.jp/column/entry-780100.html
http://archive.today/2018.08.11-041720/https://ryukyushimpo.jp/column/entry-780100.html

幼い頃の夏の夜、畳間に寝ていると、障子の向こうに雪女が現れる夢をよく見た。はっと目が覚め、怖くて眠れなくなった

▼大人になり、夜を美しく描く映画に出合った。ミッシェル・オスロ監督のアニメーション「夜のとばりの物語」だ。舞台は古い映画館。好奇心旺盛な少年と少女が映写技師と共に、夜な夜なお話の世界を紡ぐ
▼情熱やアイデアで困難に立ち向かう愛の物語を、鮮やかな色彩と影絵で描く作品だ。不公平なことや暴力を許せないという思いが、物語を作る原動力というオスロ監督は、フランスに生まれ、幼少時代をギニアで過ごした。その体験が代表作「キリクと魔女」を作った
▼小さな男の子、キリクが生まれたアフリカの村は魔女の呪いで泉は枯れ、人々は苦しんでいた。大人たちが恐怖で動けずにいる中、キリクは「なぜ、魔女は意地悪なの?」と問い続け、村を救う
▼キリクの武器は、知恵と勇気と「なぜ?どうして?」という問い。小さな体で魔女に立ち向かう姿は、小さな島に大きな米軍基地を押し付ける政府に声を上げる沖縄の姿と重なる。オスロ監督は「直面した問題に自ら立ち向かうこと。私のヒーローたちはみんな自立している」と語る
▼11日に辺野古沖の埋め立て土砂投入に反対する県民大会が開かれる。明けぬ夜はない。恐怖や無力感で立ち止まらず、行動する勇気を共有したい。