<つなぐ 戦後73年>広島原爆の日 「歴史を忘れた時、重大な過ちを犯す」 - 東京新聞(2018年8月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080602000268.html
https://megalodon.jp/2018-0806-1821-42/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080602000268.html

広島は六日、被爆から七十三年の「原爆の日」を迎えた。広島市中区平和記念公園では午前八時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。松井一実市長は平和宣言で日本政府に「核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で憲法の平和主義を体現するためにも、国際社会が核なき世界へ向けた対話と協調を進めるよう役割を果たしてほしい」と主張。直接的な表現では条約の批准を求めなかった。
昨年、核禁止条約が国連で採択され、核廃絶への機運醸成につながると期待された。しかし、米国の「核の傘」の下にある日本政府は否定的な立場を取っており、被爆者から批判が相次ぐ。今年六月の米朝首脳会談北朝鮮は「完全な非核化」を約束したが、先行きは不透明だ。平和宣言は「朝鮮半島の緊張緩和が今後も対話によって進むことを希望する」とした。
平和宣言は、自国第一主義の台頭や核兵器の近代化など世界の現状を「冷戦期の緊張関係の再現」と懸念。歴史を忘れた時に人類は再び重大な過ちを犯すとし「ヒロシマを継続して語り伝えなければ」と指摘した。核保有国には核拡散防止条約(NPT)が義務付ける核軍縮の誠実な履行を要求した。
式典ではこの一年間に亡くなったり、死亡が確認されたりした五千三百九十三人の名前が書かれた原爆死没者名簿を原爆慰霊碑の石室に納めた。これまでに記帳された死没者の総数は計三十一万四千百十八人となった。
約五万人の参列者は「平和の鐘」が響き渡る中、原爆が投下された時刻の八時十五分に黙とう。子ども代表でいずれも広島市の小学六年、米広優陽君(12)と新開美織さん(12)が「平和への誓い」を宣言した。
式典には八十五カ国と欧州連合(EU)の代表が参列。核保有国からは米国の駐日大使が三年ぶりに参加した他、英仏ロやパキスタンなどが代表を派遣した。国連の軍縮担当上級代表の中満泉事務次長がグテレス事務総長のメッセージを代読した。被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は、今年三月末時点で十五万四千八百五十九人。平均年齢は八二・〇六歳となった。

◆「平和への誓い」全文
人間は、美しいものをつくることができます。

人々を助け、笑顔にすることができます。

しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。

昭和二十年(一九四五年)八月六日 午前八時十五分。

原子爆弾の投下によって、街は焼け、たくさんの命が奪われました。

「助けて」と、泣き叫びながら倒れている子ども。

「うちの息子はどこ」と、捜し続けるお父さんやお母さん。

「骨をもいでください」と頼む人は、皮膚が垂れ下がり、腕の肉がない姿でした。

広島は、赤と黒だけの世界になったのです。

七十三年がたち、私たちに残されたのは、

血がべっとりついた少女のワンピース、焼けた壁に記された伝言。

そして今もなお、遺骨のないお墓の前で静かに手を合わせる人。

広島に残る遺品に思いを寄せ、今でも苦しみ続ける人々の話に耳を傾け、

今、私たちは、強く平和を願います。

平和とは、自然に笑顔になれること。

平和とは、人も自分も幸せであること。

平和とは、夢や希望をもてる未来があること。

苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。

その平和への思いをつないでいく私たち。

平和をつくることは、難しいことではありません。

私たちは無力ではないのです。

平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。

七十三年前の事実を、被爆者の思いを、

私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。

平成三十年(二〇一八年)八月六日

子ども代表

広島市立牛田小学校六年

  新開美織(しんかいみおり)

広島市立五日市東小学校六年

  米広優陽(よねひろゆうひ)

<つなぐ 戦後73年>僕らが語り継ぐ 「被爆者の方いなくなっても」 - 東京新聞(2018年8月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080602000256.html
https://megalodon.jp/2018-0806-1820-32/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080602000256.html

「いつか被爆者が一人もいなくなる」。平成最後の「原爆の日」を迎えた六日、酷暑の平和記念式典で、子どもたちは非核の思いを未来に引き継ぐと誓った。
「僕らが原爆の事実を受け継がないと、今まで被爆者の方が語ってきてくれた意味がなくなってしまう」。広島の子どもを代表し、平和記念式典で「平和への誓い」を宣言した広島市立五日市東小六年の米広優陽(よねひろゆうひ)君(12)は強い思いを胸に、平和記念公園から訴えた。
身内に被爆者はいないが、学校の平和学習などで何度も被爆体験を聞いてきた。印象深かったのは四年生の時に聴いた被爆者の坪井直(すなお)さん(93)の講演だ。
坪井さんは被爆後、助けに来たトラックが働けそうな大人の男性だけを乗せていき、乗りたそうだった女の子は置き去りにされた様子を語った。「戦争は助け合おうという大切な気持ちが失われる」と恐ろしさを感じた。
そんな中、テレビのニュースで被爆者の平均年齢が八十歳を超えていると聞いた。自分が二十二歳になったら九十歳、三十二歳の時には百歳を超える計算だ。「僕が大人になったとき被爆者の方が一人もいなくなるときが来るんだ」と実感した。
女の子の話をする坪井さんは涙を浮かべていた。被爆者の方がこうしてつらい話を伝えてくれてきたから、自分も当時の話を知ることができる。同じように将来誰かが語り継がないといけない。「戦争のことをもっと知りたい」と最近思うようになった。
子ども代表は多くの人に受け継ぐ大切さを訴えるチャンスだ。「学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります」。暑い夏空の下、大きな声が響いた。

カトリック教会は死刑に全面反対、バチカンが容認部分の教理変更 - ロイター(2018年8月3日)

https://jp.reuters.com/article/vatican-idJPKBN1KO0I1
http://archive.today/2018.08.06-092342/https://jp.reuters.com/article/vatican-idJPKBN1KO0I1

バチカン市 2日 ロイター] - ローマ・カトリック教会は2日、信者に対する教理の手引きである「カテキズム」の文面を変更し、死刑はいかなる状況においても容認できないと明記した。
カトリック教会は数世紀にわたり、極端なケースに関しては死刑を容認してきた。しかし、2005年に死去したヨハネ・パウロ2世の在任中に立場が変化し始めた。バチカンローマ法王庁)は今回の改定については、死刑に全面的に反対するローマ法王フランシスコの姿勢が反映されたと説明している。
新たな教理は、「死刑は個人の不可侵性と尊厳に対する攻撃であり、容認できない」と述べ、教会は世界規模の死刑廃止に向け「決意を持って」働いていくとしている。
この方針変更は、米国など死刑が合法とされている国から強い反発を招く公算が大きいとみられている。
国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによると、昨年死刑が宣告された国は53カ国、このうち23カ国で少なくとも993人が処刑された。執行が多かったのは、中国、イラン、サウジアラビアイラクパキスタンだった。
米国の処刑は23人で、アムネスティは同国は米州で唯一死刑を執行している国だと付け加えた。
欧州では、大半の国で死刑が禁止されており、昨年死刑を執行した国はベラルーシのみ。
一方、昨年末までの時点で死刑を禁止した国は106カ国だった。 

(筆洗)復刊した画集「消えた町 記憶をたどり」 - 東京新聞(2018年8月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018080602000132.html
https://megalodon.jp/2018-0806-0911-01/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018080602000132.html

<ただ思っている あなたたちはおもっている 今朝がたまでの父を母を弟を妹を (いま逢(あ)ったってたれがあなたとしりえよう) そして眠り起きごはんをたべた家のことを>
峠三吉「仮繃帯(ほうたい)所にて」(『原爆詩集』収録)の一部を引いた。広島の原爆忌である。原爆によって無残な姿にされてしまった女学生。詩はその心に映る投下直前までの愛(いと)おしい「記憶」を描く。
当時だから、生活は苦しかっただろう。それでも語り合える家族や友がいて、心落ち着く家、町並みがあった。それぞれの人が生きている「物語」の数々がそこにあった。八月六日午前八時十五分。それが一瞬にして消えた。
最近、復刊した画集「消えた町 記憶をたどり」(森冨茂雄さん)。原爆投下前の旧中島地区の町を鉛筆で描いている。映画『この世界の片隅に』で広島の町を描く際の参考資料となった。
その絵を見れば、人びとの「物語」が想像できる。声が聞こえてくる。それぞれの<眠り起きごはんをたべた家のこと>を感じる。それが核兵器によって、跡形もなく失われた事実。それを人間が行ったのだという事実におののく。
あの日から七十三年。核廃絶の動きは鈍い。政治外交が核兵器を葬ることができぬのなら人の心の誓いをもって葬るしかないのだろう。人びとの「物語」を想像し慈しむ。そして、何があろうと奪ってはならぬと。

『被爆73年 継承』 鉛筆画が伝える「消えた街の記憶」 - 広島ニュースTSS(2018年8月1日)

http://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000001856.html


被爆73年継承』
今年4月に復刊された、鉛筆画の画集。その中には原爆投下前の広島の町の様子がいきいきと描かれています。画集が復刊に至った理由と、絵を描いた男性の思いを取材しました。
7年前に出版された画集『消えた町記憶をたどり』。
そこには、広島に投下された原爆の爆心地にあり、壊滅した繁華街・旧中島地区周辺の被爆前の姿が鉛筆によって隅々まで細かく描かれています。
2年前、大ヒットを記録した映画『この世界の片隅に』。
作品の中で街並みを描く際、参考にされたのが、この絵でした。
映画で中島地区のシーンを担当した浦谷千恵さんは。
【『この世界の片隅に』浦谷千恵監督補】
「まずはすごいなっていう一言。これだけのものを描くエネルギーに一番圧倒されました。写真だけだとわからない細かい、町が非常にいきいきと描かれていて、大変感動もしたし、作品の資料として大切に使わせていただきました」
この絵を描いたのは広島市西区に住む森冨茂雄さん(88)。
73年前のあの日、自身は爆心地から2.5キロの学徒動員先で助かりましたが、家族の営む店が爆心地近くにあり、父や祖母、弟2人を原爆で失いました。
【森冨茂雄さん】
「いっぺんに孤児になりましたね。やっぱり肉親というものはいいもんです。寂しいです。
いっぺんに亡くなれば」
思い出すのも辛い記憶。しかし戦前の町を知る人がいなくなることへの焦りも募っていました。
【森冨茂雄さん】
「ちょっと絵を描いてみたらね、みな懐かしがって。戦前の広島こうだったって」
当時を知る人と話が盛り上がり、記憶をたどって楽しい思い出が次々と蘇りました。
【森冨茂雄さん】
「学校から帰ったら、もう勉強するより遊んで、行動範囲が広かったんですよ。昼間は練兵場、護国神社の方で遊んで、夜は店が閉まるまで本通り筋で遊んでた。今日は陣取り合戦やろう、軍艦遊芸やろう…馬跳びをやって遊んだりなんかしてましたね」
本通り商店街はスズラン灯の下を多くの人が行き交い、子供たちの遊び場でもありました。
【森冨茂雄さん】
「ここはレストハウス。ここ越智病院。元安川に落ちないかと言ってね、女の先生に。
子ども時分によくそう言って、からかいよった。落ちないか(=越智内科)って言って。
ハハハハハ」
当時の町並み、人々の暮らしや息遣いを感じることができます。
この画集を出版したヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さん。
ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会・中川幹朗代表】
「ほとんど人間は描かれていないけれど、家や通りだけ描いてあってもすごく人間を感じる。いつかこれを画集にしたいと思って。今回、映画がなければ再版にも至らなかったと思います。これもひとつのきっかけで、映画を通して広島のかつての町の暮らしや原爆そのものについて、皆さんが知っていくきっかけになればうれしいことだなと思います」
また、復刊された画集を購入した人には、この『アートカード』がプレゼントされることになりました。映画に登場した被爆前の町のイラストに説明書きを重ねられるもので、映画『この世界の片隅に』の監督補・浦谷千恵さんの協力で実現しました。
【『この世界の片隅に』浦谷千恵監督補】
「ちょっとでも大切な画集を広めるために一助になれないかなと思って企画しました。画集と照らし合わせながら楽しんでもらえたらなと思っています」
映画のブレイクによって再び光を浴びた画集。
【森冨茂雄さん】
「戦前の広島を原爆(投下)前のことを話せる人がおらんようになってきてますね。説明がいつまでできるかなと思います。戦前の広島というものを、人がいて、たくさん住んでいる人が亡くなったんだということを知ってもらいたくて描いたんです」
73年前のあの日。そして、それ以前の町の様子を知る人の貴重な記憶の形です。

【『この世界の片隅に』】

GHQ検閲逃れた1949年の手記 14歳、焦土で惨状を見た きょう広島原爆の日 - 東京新聞(2018年8月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080602000134.html
https://megalodon.jp/2018-0806-0909-02/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080602000134.html

広島への原爆投下から四年後の一九四九年に書かれた被爆者の手記が三月、六十九年ぶりに見つかり、原爆の語り部らが冊子にまとめた。当時は連合国軍総司令部(GHQ)が原爆に関する報道を規制しており、この時期に書かれた克明な記録の公表は少ないという。筆者の西村利信さん(87)=千葉県船橋市=は「あの惨状が忘れられつつある今、若い人たちに読んでほしい」と願う。 (原尚子)
「背中におおいかぶさっていた人が側面にドタリと落ちて来た。まさに怪物、焼けただれた真赤な全身、顔はふくれ上がって目はつぶれ(中略)級友の一人であろうが、誰だか全然見当がつかない」。手記には、原爆投下直後の光景が、鮮烈な記憶をもとに生々しく描かれている。
西村さんは、十四歳だった旧制広島県立広島第二中学校(現・広島観音高校)二年の時、爆心地から約二キロの東練兵場で勤労奉仕中に被爆。顔にひどいやけどを負いながらも一命を取り留めたが、爆心地近くにいた陸軍中佐の父利美さん=当時(45)=と一つ下の弟正照さんを亡くした。瀕死(ひんし)の正照さんを必死で家へ連れ帰った様子も手記に記されている。
終戦後、西村さんは母の実家があった千葉県に移住。記憶を封印したかったが、県立千葉高校二年の時、所属していた文学クラブの顧問教諭に「今書かないと」と促された。嫌々筆をとると「当時の光景がよみがえった」。一気に書きあげた手記は、クラブ誌「道程」に二号連続で掲載された。
五二年のサンフランシスコ講和条約発効まで、GHQの報道規制で原爆に関する記述は制限され、検閲を受けて没収された時代。西村さんは「内々のクラブ誌だから見つからなかったのでは」と推測する。
現在、西村さんは肺がんで闘病中。身辺整理をしていた今年三月、捨てる物の山から長男の妻桂子さん(49)が、茶色くもろくなった手記を見つけた。桂子さんの勧めで、語り部の活動をしている被爆者、小野英子さん(79)=習志野市=らに見せると「ぜひ世に出したい」と熱望された。
手記には、父の死亡確認証の文面を書き写した部分がある。当時は字面を追っただけだった。あらためて読み返して初めて父の死の状況が頭に入り、向き合うことができた。つらすぎて三人の息子にも話さなかった被爆体験だが、手記の発行へ気持ちが動いた。
手記の終わりに「現在の世界情勢は楽観を許さない」と書いたが、今の方が核戦争の危機が高まっていると感じる。西村さんは「生きているうちに公表できて良かった。焦土化した広島を忘れないでほしい」と語った。

◆ネットで全文公開
西村さんの手記をまとめた冊子「原爆体験記」は約五百冊作られ、広島観音高校同窓会や広島平和記念資料館などに寄贈された。俳人の黒田杏子(ももこ)さん主宰の「藍生(あおい)俳句会」も月刊誌八月号別冊として発行。編集に携わった俳優で語り部活動をしている岡崎弥保(みほ)さんのホームページ「言の葉」(http://ohimikazako.wixsite.com/kotonoha)でも公開され、ダウンロードできる。
原本は「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」(東京都千代田区)へ寄贈。同会の栗原淑江さん(71)は「貴重な記録。よくぞ残っていた」と話している。

西村利信原爆体験記(PDF)

原爆忌に考える 「韓国のヒロシマ」から - 東京新聞(2018年8月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018080602000160.html
https://megalodon.jp/2018-0806-0910-25/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018080602000160.html

広島、長崎、そして韓国の原爆資料館被爆者の命の証しに触れる場所。伝えたい言葉はきっと同じです。「過ちを二度と繰り返してはなりません」−。
慶尚南道陜川(ハプチョン)郡−。釜山(プサン)から北西へ車でおよそ二時間半。山間にたたずむ人口六万人ほどの小都市は「韓国のヒロシマ」とも呼ばれています。
広島と長崎の被爆者の約一割が、朝鮮半島出身者。広島で三万五千人、長崎では一万五千人が、あの原爆の犠牲になりました。
韓国人被爆者の六割が、陜川出身だったと言われています。現在韓国国内には、約二千五百人の被爆者が住んでおり、うち約六百人が陜川で暮らしています。
日本の植民地支配下で、陜川から釜山、釜山から長崎や下関に至る陸路と海路が整備され、徴用や徴兵だけでなく、同郷のつてを頼って多くの人が、職を求めて家族とともに、長崎の造船所や広島の軍需工場などに渡ったからでもありました。
その「韓国のヒロシマ」に昨年の八月六日、陜川原爆資料館=写真=が開設されたのです。
日本円で二億数千万円の建設費には、主に韓国の宝くじ基金が充てられました。
延べ床面積約五百三十平方メートルの二階建て。一九九六年に日本からの支援で建てられた被爆者の療養施設「原爆被害者福祉会館」の隣に並んでいます。
一階が展示室。核関連の詳細な年表や被爆直後の惨状などの写真パネルが掲げられ、原爆の構造を示す模型や、被爆者が持ち帰った愛用品や証明書類が展示されています。♪核のない世界がほしい…と繰り返す子どもたちの合唱が、ビデオ画面から聞こえてくるのが印象的でした。
二階には、被爆者が日本で愛読した本や、数次にわたる実態調査の分厚いファイルが並ぶ資料室。書物の中には「はだしのゲン」もありました。
韓国原爆被害者協会陜川支部の聞き取り調査は続いています。というよりも、被爆一世の高齢化が進み、記憶が薄れていく中で、一層力を入れています。
どういう経緯で日本に渡ったか、被爆当時は何をしていたか、いつ、どのようにして、陜川に帰ってきたか、帰国後障害は出ているか…。面談を重ねて書き取ったり、自ら書いてもらったり−。
韓国の被爆一世、二世も今もなお、原爆の放射能が、自身の健康や子孫に及ぼす影響を恐れて生活しています。
◆人は過ちを繰り返す
戦後、やっとの思いでふるさとへ帰りついたのに、周りから「自業自得」と非難を受けた人たちも、少なからずいたそうです。固く口を閉ざすのも、無理からぬことでしょう。
日本で生まれ育った被爆者には「悲しいくらい日本語が上手」と言われても、ハングルが書けない人がいます。難しい調査です。
それでも「原爆のあるところには、戦争が必ずつきまとう。事実を超える真実を伝え残しておかないと、人は過ちを繰り返す」という信念が、支部長の沈鎮泰(シムジンテ)さんらを支えています。
沈さんは二歳の時、広島市内で被爆しました。原爆の記憶はほとんどありません。後遺障害も出ていません。
しかし、記憶の底に刻まれた“ピカドン”への恐怖が消え去ることもありません。
沈さんは資料館の建設に二千万円相当の私財を投じています。
「“事実を超える真実”とは何ですか」と尋ねると、沈さんは「例えば、二十数万人が原爆の犠牲になったという数字は事実。真実とは被爆者一人一人の人生そのものだと思う−」と答えてくれました。
私たち自身が想像力を働かせ、その中から、くみ上げるべきものなのでしょう。
核兵器の恐ろしさ、戦争の愚かさ、悲しさなどを。
◆記録にとどめ何度でも
真実を伝え残していかないと、人は過ちを繰り返す−。それは「国」も同じでしょうか。
夏休み。重い宿題を出されたような気がしています。
仮にも“エリート”と呼ばれるほどの人たちが、大切な公文書をいともあっさり改竄(かいざん)したり、隠蔽(いんぺい)したりできる国ならなおのこと。原爆や戦争の真実を掘り起こし、記録にとどめ、繰り返し、繰り返し、繰り返し、伝えていかねばならないと。

きょう広島「原爆の日」 「核廃絶」受け継ぐ教育を - 毎日新聞(2018年8月6日)

https://mainichi.jp/articles/20180806/ddm/005/070/063000c
http://archive.today/2018.08.06-001207/https://mainichi.jp/articles/20180806/ddm/005/070/063000c

広島は73回目の「原爆の日」を迎えた。長崎は9日に続く。数十万人の死傷者を出した原爆の恐ろしさと平和の尊さを再確認する日である。
被爆者は年を追うごとに減っている。厚生労働省によると今年3月時点で15万5000人で、この10年で9万人が亡くなった。広島、長崎両市と隣接地域で直接被爆した人は初めて10万人を割り込んだ。平均年齢は82歳と高齢化が進む。
8歳の時に広島で被爆した小倉桂子さん(81)は、自らの体験を英語で外国人旅行者に伝える語り部だ。国際会議や海外での証言活動にも携わるが、「やがて遺品しか残らない日が来る。日々、最後だと思って証言している」と話す。
被爆者の声がか細くなるにつれ、それをしっかりと受け継ぐ教育がますます重要になっている。
被爆地は平和教育への取り組みに熱心だ。広島市は小学校から高校まで12年間のプログラムで、発達段階に応じた平和の学びを実践する。長崎市は今年、小中学生が被爆者らから証言を聞くだけでなく対話を重視する授業を始めた。
平和を学ぶ大切さは日本のすべての子供にとっても同じだ。被爆地に立ち、被爆者の証言に耳を傾けることで、戦争がどういうものかを感覚的に知ることができる。
しかし、広島市によると、昨年に広島を訪れた修学旅行生は32万人で、ピークだった1980年代半ばの6割弱まで落ち込んでいる。
被爆地での体験を一過性にしないことも大事だ。戦争は死傷者だけでなく都市や自然の破壊、多くの難民や社会の貧困をもたらす。戦争を防ぐにはどうすればいいかという議論をクラスで交わすこともできよう。
世界に核兵器の恐ろしさを知ってもらうことは政府の責任だ。しかし、安倍政権は「核の傘」を提供する米国の意向に沿って昨年、国連で採択された核兵器禁止条約に背を向けた。その後も核保有国と非保有国の橋渡し役となると言いつつ、具体的な成果は一向に見えてこない。
昨年、核兵器禁止条約採択に貢献した国際NGOがノーベル平和賞を受賞した。核廃絶への姿勢が後退したという疑念を拭い去ることができなければ、唯一の被爆国というテコを日本は失うことになる。

原爆投下から73年 核廃絶へ市民の連帯を - 朝日新聞(2018年8月6日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13623681.html
http://archive.today/2018.08.06-001336/https://www.asahi.com/articles/DA3S13623681.html

「米国全域が射程圏にあり、核のボタンが机の上にある」「私の方がずっと強力だ。こちらのボタンは確実に作動する」
背筋の凍る応酬だった。北朝鮮と米国の対立とともに迎えた2018年は、核時代の危うさを世界に知らしめた。
両国の首脳はその後、握手の初対面を演じたが、非核化への具体的な進展はまだみえない。不確実さを増す国際政治に核のボタンが預けられている現実をどうすればいいのか。
広島に原爆が投下されて、きょうで73年になる。筆舌に尽くしがたい惨禍を繰り返してならぬと誓った被爆者らの願いは、まだ約束されないままだ。
オバマ大統領が広島を訪れたのは、つい2年前。その米国の政権交代で、核の廃絶をめざす風景は一変したかのようだ。
ただ、希望の光もある。昨年からの核兵器禁止条約の動きである。古い国家の論理に対抗して、国境を超えた人間の力を束ねて変化をめざす潮流だ。
「人道」という人類共通の価値観を信じて行動する市民のネットワークが、今年も世界と日本で根を張り続ける。その発想と連帯をもっと育てたい。
核をめぐる風景を変える道はそこに開けるのではないか。
■危うい不拡散体制
核戦争がどれだけ差し迫っているかを表す「終末時計」。掲載する米科学誌は1月、破滅を示す午前0時の2分前まで時計の針を進めた。
冷戦下で米ソの水爆実験が続いた1953年と同じ最悪の水準である。その後、北朝鮮による核戦争の緊張はやや緩んだものの、トランプ大統領の対外政策は状況を複雑にしている。
とりわけ、北朝鮮とイランへの待遇の違いが核の拡散を防ぐ国際努力を揺さぶっている。
北朝鮮は、核不拡散条約(NPT)から脱退して核実験を繰り返してきた。一方のイランは反米を唱えつつもNPTにとどまり、核開発を抑える多国間の核合意を守ってきた。
その北朝鮮と談笑しながら、イランとの核合意からは一方的に離脱し、敵対心をあおる。理不尽で一貫性のない対応だ。
トランプ氏はまた、NPTに入らずに核保有したイスラエルを、これまでの米外交の常識を超えて厚遇している。
これではルール破りの核開発をめざすほうが得策に見えてしまう。冷戦以来、核不拡散体制を主導してきた米国自身が、それを損ねる動きに陥っている。
核抑止力を信奉する保有国。その「核の傘」に頼る同盟国。旧態依然の安全保障の縛りが続く限り、核軍縮は進まない。
■意義深い核禁条約
国連で122カ国が賛成し、昨年採択された核兵器禁止条約を生んだのは、核を「非人道的な絶対悪」とみる素朴な人間の感覚である。
条約は、核の開発、保有、使用に加え、使用をちらつかせる「脅し」も違法と定めた。
保有国はこれらを非現実的と決めつけ、「国際社会を分断するだけだ」と突き放す。
だが、NPTが定めた核軍縮を怠ってきたのは保有国だ。そのうえ最大の核大国である米国もロシアも、核の使い道を広げる近代化に走っている。
身勝手な保有国の主張に説得力はない。核禁条約はむしろ、大国と核開発国がむしばんできた核不拡散体制を支える新たな枠組みと考えるべきだろう。
条約の発効には50カ国の批准が必要で、まだその途上だ。それでも被爆者や核実験被害者の「受け入れがたい苦痛と被害」を繰り返さない決意を、世界の規範に刻んだ意味は重い。
ところが、日本政府は今も条約を拒絶している。理解しがたい。「核の傘」の下にあっても条約の趣旨に賛同するなど、前向きな姿勢は示せるはずだ。
昨年、長崎での式典後、安倍首相に対し被爆者団体の代表は「あなたはどこの国の総理ですか」と詰め寄った。世界の人々に届いた被爆者の声に、日本政府はなぜ耳を傾けないのか。
やけどの背中の写真を手に各国で核廃絶を訴えた谷口稜曄(すみてる)さん、そして運動を理論的に支えた長崎大元学長の土山秀夫さんがともに昨年、世を去った。「被爆者がいなくなる時代」は確実に近づいている。
被爆者の思い継承を
今を生きる市民が、被爆の記憶と核廃絶への思いを継承し、行動せねばならない。
核禁条約は、世界のさまざまな団体、個人らが緩やかに結束して進めてきた。まとめ役としてノーベル平和賞を受けたNGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長は今年、長崎で強調した。「政府ではなく、日本の人々にかかっている」
「核なき世界」は、もはや核大国や政府だけに託す願いであってはなるまい。一人ひとりが世界を観察し、つながりあい、身近な政治を動かしていく。小さな行動の積み上げの先にこそ、核廃絶の希望が生まれる。

(政界地獄耳)岸田離れの先に安倍離れ - 日刊スポーツ(2018年8月6日)

https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/201808060000213.html
http://archive.today/2018.08.06-011328/https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/201808060000213.html

★安倍3選は確定的とメディアははやし立てるが、その材料となったのが自民党政調会長岸田文雄の出馬断念会見だ。「あの会見で竹下派や党筆頭副幹事長・小泉進次郎らの動きを封じ込めたと官邸は考えたはずだ。岸田が安倍支持を打ち出せば彼らは追い込まれ、元幹事長・石破茂を担ぐ機運が下がり勝ち馬に乗りたくなり、消極的安倍支持に向かわざるを得なくなる」(自民党中堅議員)との見方が大勢だったし、官邸のもくろみもそうだろう。
★だが、岸田の早期出馬断念が事態を急変させたといえそうだ。「岸田派のベテランや中堅は岸田の出馬断念で官邸に派閥を高く売るつもりだった。つまり岸田派が次の内閣改造で厚遇されることが早期の出馬断念会見の意味だった。ところがあの会見は官邸に高く売ったどころか自分で崩れていっただけ。あれでは岸田派は安倍3選を支持したものの、まともな扱いは受けないだろう」(主流派中堅議員)。そうなれば岸田派は1枚になるとは思えない。そもそも若手には主戦論が強く、このままでは岸田本人が派閥を維持できるかどうかもわからない。
★政治音痴の岸田は出馬断念会見の直後、「私自身、安倍総理と政策的に重なる部分もたくさんある一方で、基本的な政治理念や哲学で違う部分もある。食い違う部分でも、しっかりものを言っていく。最終的に自分で政権をとることが自分の思いを最大限実現することにつながると信じて引き続き努力を続けたい」と発言した。この言い訳に党内はあきれ返り、岸田離れが進むだろう。それは安倍1強時代から反主流派になっても安倍政治を批判していく芽が生まれたことに他ならない。全国の党員も、この岸田の迷走を見て自民党の将来を案じた者も多いはずだ。図らずも岸田の弱さが安倍離れを生んだことになる。(K)※敬称略

木村草太の憲法の新手(85)「辺野古」承認撤回 普天間返還の条件未整備 国に重大な責任問題 - 沖縄タイムズ(2018年8月5日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/294034
https://megalodon.jp/2018-0806-0913-52/www.okinawatimes.co.jp/articles/-/294034

7月27日、翁長雄志沖縄県知事が、辺野古埋立承認処分を撤回する方針を表明した。既になされた行政処分の効力を失わせる方法には、(1)取消と(2)撤回の二つがある。

このうち、(1)取消は、行政処分に「当初から」問題があった場合に、その行政処分の効力を失わせる。2015年10月、翁長知事は、当初から公有水面埋立法上の要件を満たしていなかったことを理由に、辺野古の埋立承認を取り消した。しかし、最高裁は16年末、取消を違法と判断し、埋立承認分を復活させた。
これに対し、(2)撤回は、「行政処分後」に生じた事情を理由に、行政処分の効力を失わせる。一般に、「利益を与える処分」を撤回すると、受益者に不利益となるので、撤回は慎重に行わねばならない。しかし、受益者自身に問題があった場合などは、処分撤回も許容されると考えられている。受益者の落ち度を理由に受益処分の撤回を認めた最高裁判決も存在する。
では、翁長知事の撤回について、埋立の受益者たる国に落ち度があるといえるか。沖縄県が国側(沖縄防衛局)に送付した聴聞通知書には、さまざまな理由が指摘されているが、今回は、政府の普天間基地返還の可能性に関わる説明について着目したい。
防衛省の説明によると、辺野古に新設する施設は滑走路の長さが不十分で、これまで普天間基地で行っていた活動に支障が生じる可能性があるという。このため、「普天間飛行場代替施設では確保されない長い滑走路を用いた活動のための緊急時における民間施設の使用の改善」が、普天間基地返還の条件となっている。

昨年6月6日の参議院外交防衛委員会で、稲田朋美防衛大臣(当時)は、次のように発言した。緊急時の民間施設の使用について、「現時点で具体的な内容に決まったものがないため、米側との間で協議、調整をしていく」必要がある。「仮に、この点について今後米側との具体的な協議やその内容に基づく調整が整わない、このようなことがあれば、返還条件が整わず、普天間飛行場の返還がなされない」。
稲田大臣は、「そういったことがないようにしっかりと対応をしていく」と補足したが、辺野古新基地が完成しても、普天間基地が返還されない可能性があることを認めた点に変わりはない。
そもそも、辺野古の埋立は、普天間基地返還のための事業だったはずであり、稲田大臣の説明は、埋立承認の大前提を掘り崩すものだ。そうすると、埋立承認を撤回した上で、普天間基地返還計画が実現可能なものかを改めて検討すべき、との沖縄県の主張には、十分な合理性があるように思われる。
また、工事が着工されるに至っても、未だ普天間基地返還の条件を整えられていないことは、事業者としての国の重大な責任問題だ。法律論としても、受益者たる国の落ち度を理由とした撤回を適法とする論理は、十分に成り立ち得るように思う。

埋立承認撤回のニュースは、沖縄県内では注目されたが、県外ではあまりに扱いが小さい。米軍基地は、日本全体の安全保障と地方自治に関わることであり、国民全体で関心を持たねばならない。(首都大学東京教授、憲法学者

お知らせ 本コラムを収録した書籍「木村草太の憲法の新手」(沖縄タイムス社、1200円)は、県内書店で販売されています。

木村草太の憲法の新手

木村草太の憲法の新手

(大弦小弦)働く女性が昇進しようとすると頭をぶつける… - 沖縄タイムズ(2018年8月6日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/294192
https://megalodon.jp/2018-0806-0915-32/www.okinawatimes.co.jp/articles/-/294192

働く女性が昇進しようとすると頭をぶつける「ガラスの天井」という言葉がある。目には見えないが、暗黙のうちに「女はここまで」と決められた状態を指す

▼東京医科大が女性の受験生に振り下ろしていたのは、足を切り落とすメスだったのか。女性というだけの理由で点数を操作し、合格しにくくしていた

▼このメスはガラス製ではない。学内の入試関係者全員に見えていたはずだ。制度的な操作なのに長年告発もなく続いてきたところに深い闇がある

▼女性を合格させない理由は結婚や出産で離職率が高いからだという。別の私立大を出た医師が「人がいないと回らないから」と擁護するのを聞いた。命に向き合う医療の場で、出産する性を理由にした差別がまかり通っているのは「病気」だと言うほかない

南アフリカの人種差別がそうだったように、どんな差別にも「理由」は付けられる。それでも差別は絶対悪であり、社会をむしばむ。東京医科大出の男性医師の中には、本来その資格がなかった人がいる。今回の事件は、医療や教育のシステムに対する信頼を根本的に傷付けた

▼もう一つ、男性がいつの間にか得をしている構造がはっきり示された。「沖縄問題」が本土の問題であるように、「女性問題」は男性の問題である。男性はみな当事者。沈黙は差別への加担になる。(阿部岳)

<金口木舌>少年の頃、土に埋もれた手りゅう弾と銃弾を見つけた。那覇市内の・・・ - 琉球新報(2018年8月6日)

https://ryukyushimpo.jp/column/entry-776367.html
http://archive.today/2018.08.06-001728/https://ryukyushimpo.jp/column/entry-776367.html

少年の頃、土に埋もれた手りゅう弾と銃弾を見つけた。那覇市内の林で遊んでいた時だ。戦後半世紀になろうとしていた。その場には現在、集合住宅が立ち並ぶ

沖縄戦で使用された爆弾のうち1万トン程度が不発弾になり、今も推定約2千トンが残る。全ての処理に約70年を要する。戦後この方、命が脅かされる状況が続く
▼1974年3月2日、那覇市小禄で不発弾が爆発、幼児を含む死者4人、重軽傷者34人を出した。2009年1月14日、糸満市小波蔵で水道管工事中に爆発し、作業員が重体に。自ら無邪気に触れていたことを振り返ると凍りつく
▼70年前のきょう、戦後最大の事故が伊江島で起きた。米軍弾薬処理船(LCT)に積んだ不発弾などが爆発し、居合わせた連絡船の客や出迎えた島民、乗員らを巻き込み102人が死亡、76人が負傷した
▼当時6歳の金城正子さん(76)が自宅外に出ると、空を焦がす勢いで真っ赤な炎と黒煙が上がっていた。焼け焦げた死体を背負った人が何人も歩いていた。沖縄戦を生き抜いた人々を再び地獄にたたき落とした
▼昨年、事故を語り継ぐ会で金城さんが嘆いた。「8月6日といえば(原爆の日の)広島は沖縄の人にもよく知られているが、伊江島の爆発事故は知られていない」。慰霊祭は6日午後3時半、伊江港内慰霊碑で執り行われる。この悲劇を忘れてはいけない。