本で学んで深まる交流 世田谷親子読書会 きょう記念イベント:東京 - 東京新聞(2018年7月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201807/CK2018071502000127.html
https://megalodon.jp/2018-0715-1002-42/www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201807/CK2018071502000127.html

世田谷区の砧図書館を拠点に、親子で本に親しもうと活動する「世田谷親子読書会」が今年、設立50年を迎えた。同い年の子どもとその親でグループを作り毎月、本を通じて学びを深め、本とともに成長してきた。15日には会員以外も参加できる記念イベントを開く。 (神谷円香)
会は一九六八年、同区砧のゆかり文化幼稚園の園児の保護者が始めた。今は少なくなったものの、こうした読書会はこのころ各地に広まっていた。初めは幼稚園児とその親だけだったが、後に小学生以降も引き続き活動するようになった。
幼稚園児のグループは皆「かしの木」と呼ばれ、小学校に上がる際、それぞれの学年グループの名前を決める。昔は「どんぐり文庫」「たんぽぽ」、近年は幼稚園で習った歌の歌詞から決めることが多く、「てんぐのうちわ」「キリンの夢」「トーテムポール」といった凝った名前だ。
園児のうちはおやつを楽しみに集まり絵本に親しみ、小学生になると自分たちで扱う課題本を選んだり、感想を言い合ったりする。図書館の集会室だけでなく、原作を読んでその映画を見たり、美術館へ行ったりと活動の場はさまざまだ。
事務局代表の稲葉祐江(さちえ)さん(45)は「先輩グループの記録を見て、この年齢だとこんな課題本を読むんだ、と参考になる。親も自分では選ばない本を読む良い機会にもなる」と話す。受験や習い事で参加が難しくなり、人数が減り解散してしまうグループも時にはあるが、続くグループでは高校生になっても親子そろって参加する。
秋に発行の五十周年記念誌には、参加者のメッセージが並ぶ。「思ったことを自由に言い合える場」「物事を多角的に見ることは楽しいと学んだ」「メンバーとは、今でも適度な距離感でつながることができている」など。
十五日午後一時半〜三時、世田谷区立千歳小学校体育館で、記念イベントの一環で空気で遊ぶ科学実験ショーがある。参加無料。問い合わせは、世田谷親子読書会=メールsetagayaoyako50@yahoo.co.jp。

(書評)村山新治、上野発五時三五分 村山新治 著 - 東京新聞(2018年7月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018071502000201.html
https://megalodon.jp/2018-0715-1003-59/www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018071502000201.html

◆映画に戦後の激動を投影
[評者]小野民樹(書籍編集者)
跨線橋(こせんきょう)に追い詰められた拳銃殺人犯、その直下を彼が乗車する約束だった上野発五時三十五分の下り列車が無念の通過…映画『警視庁物語 上野発五時三五分』は、著者村山新治の監督デビュー作である。
本書の構成は少々変わっている。一九二二年生まれの著者は長野県教員赤化事件で教職と故郷を追われた兄に誘われて、中野重治(しげはる)の小説「空想家とシナリオ」に登場する文化映画製作の芸術映画社(GES)の助監督となる。以来、戦時企業統合、敗戦、レッドパージ東宝争議等々、時代の激動にもまれながら東映の監督になるまでの回想録に、村山組の助監督をつとめた深作欣二澤井信一郎監督らが忌憚(きたん)なく著者に質問する座談会を収録。さらに、撮影台本の書き込みをもとにした、個々の作品についての密度の濃い聞き書きが加えられた。
助監督時代の最大のエピソードは、今井正監督『ひめゆりの塔』。沖縄にみたてた極寒の九十九里ロケで、一見ただ粘るだけの監督、白く凍る息を消すために口に氷を含むひめゆり部隊の面々、いつ封切りとも決められぬロケ現場の半年に及ぶ監督補佐の体験は、一冊の本になるだろう。
そして五七年、新人監督は準備に昭和の名物刑事平塚八兵衛に一週間密着、麻薬中毒、浮浪児、犯罪者がうごめく東京の底辺を歩きまわった。当時は、撮影には拳銃のホンモノを貸してくれたという。
靴底をすりへらす地道な捜査同行と上京青年特有の都会観察力は、左翼的な告発リアリズムや詠嘆調の日常貧乏描写と異なる、抒情(じょじょう)性を隠し味とするセミ・ドキュメンタリーの流れを生みだした。抒情的青春映画『故郷は緑なりき』や『海軍』『無法松の一生』の独自な視点からのリメイク、風俗映画や任〓(にんきょう)映画にも安定した演出力を発揮しながら、次第にテレビへと仕事の中心を移していく。
編者の二十年に及ぶ執念の企画は詳細なフィルモグラフィーや周辺資料も充実し、単に戦後の映画資料を超え、ともすれば個人の記憶に埋没してしまう戦後日本人の精神の軌跡を鮮やかに描き出した。
(村山正実編、新宿書房・3996円)

著者は1922年生まれの映画監督。著者のおいの編者も映画監督。

◆もう1冊 
宝田明著『銀幕に愛をこめて』(筑摩書房)。六十数年の役者人生を語る。

※ 〓は、にんべんに夾

雨傘手に「民主主義的選挙を」 14年デモ 香港の若者を追う:首都圏 - 東京新聞(2018年7月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/metropolitan/list/201807/CK2018071502000162.html
https://megalodon.jp/2018-0715-1005-13/www.tokyo-np.co.jp/article/metropolitan/list/201807/CK2018071502000162.html

2014年、香港の若者たちが「真の普通選挙」を求めて金融街を79日間にわたって占拠した運動を記録したドキュメンタリー映画「乱世備忘 僕らの雨傘運動」が、東京都中野区のポレポレ東中野で上映されている。 (野呂法夫)
世界各地で市民決起が相次いだ中、香港では雨傘を手にデモする若者らの姿が強烈な印象を残した。
自らカメラを回した陳梓桓(チャンジーウン)監督(31)は当時、二十七歳。「返還後の香港で育った『香港人』世代の一人。古里の民主主義を守るために立ち上がり、雨傘はその象徴でした」と話す。
香港は一九九七年、英国から中国に返還され「特別行政区」に。基本法の「一国二制度」は将来、トップの行政長官を普通選挙で選ぶことができるとされた。
だが二〇一四年、習近平政権は共産党が認めない候補を排除する仕組みを決定。大学・高校生らは九月、その撤回と民主主義的な選挙の道を求め、数万人規模の抗議活動を始めた。同じ「香港人」の若い警察官たちから浴びせられる催涙弾に雨傘を手に抵抗する。
映画は英語を専攻する男子大学生、法律を学ぶ女子大生、建設会社で働く男性らを中心に描く。テント村で英語無料教室が開かれ、学生らが民主主義を巡って議論を白熱させる場面は青春群像劇を思わせる。
陳監督は「香港に民主主義はないが、いつか『香港人による未来』をつくるための貴重な体験記録。日本は民主主義と自由がある。雨傘運動を共有し、積極的に政治参加する一助になればうれしい」と話した。
上映は二十七日まで。横浜市の横浜シネマリンでは八月二十五日から公開予定。

(余録)大正時代の「米騒動」は富山県から始まった… - 毎日新聞(2018年7月15日)

https://mainichi.jp/articles/20180715/ddm/001/070/141000c
http://archive.today/2018.07.15-010255/https://mainichi.jp/articles/20180715/ddm/001/070/141000c

大正時代の「米騒動」は富山県から始まった。1918(大正7)年7月、魚津(うおづ)港に漁師の妻らが集まり、輸送船へのコメの積み出し中止を求めたことなどがきっかけで、暴動を伴う騒動が全国に広がった。
富山での騒動の主役は、米価高騰の窮状を訴える女性たちだった。地元紙の「高岡新報」は「女房連は海岸に集合し其(その)数百七、八十名」「米の廉売を為(な)されたしと哀願し」などと報じている。
ときの寺内正毅内閣の総辞職にまで発展した事件から、今年は100年にあたる。魚津市は専用ロゴマークを作り、講演会や資料展示などの記念事業に取り組んでいる。
市の一連の事業には「暴動の地」という印象を払拭(ふっしょく)したい思いもこめられている。魚津歴史民俗博物館の麻柄(まがら)一志館長(63)によると、魚津での抗議行動は非暴力的なものだった。死者まで出た全国各地の騒動と異なり、逮捕者もいなかったという。「暴動の震源地だと誤解されがちです」と残念がる。
当時は第一次大戦による好景気だったが、庶民には実感が乏しく、社会には格差が広がっていた。騒動に参加した人たちに聞き取り調査を続けた地元の研究家、紙谷信雄さん(84)は「家族を守る一心からの行動だったのでしょう」と女性たちの心情を思いやる。
米騒動普通選挙運動など、大正デモクラシーに大きな影響を与えた。折しも今年、国会や地方議会で女性議員を増やすことを目指す法律が成立した。女性が政治を動かしてから100年、新たな節目となるだろうか。

木村草太の憲法の新手(84)0歳児虐待死 適切な性教育が防止に重要 若年妊娠リスク教えて - 沖縄タイムズ(2018年7月15日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/283742
https://megalodon.jp/2018-0715-1007-00/www.okinawatimes.co.jp/articles/-/283742

目黒での幼女虐待死が報じられてから、虐待防止のための議論が進んでいる。この連載でも、(1)裁判所の関与に基づく強制対応(2)家庭への相談・支援を実施する機関と、子どもの保護を行う機関との分離(3)強制調査や親子切り離しなどの基準策定(4)心中事案を防ぐための社会保障の充実(5)一時保護所・社会的養護の拡充−などを論じてきた。今回は、「0歳0カ月0日」の新生児虐待死について考えたい。
厚生労働省の最新の報告(子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について・第13次報告)によると、同省が把握した2015年度の心中以外の虐待死52人のうち、0歳児の死亡人数は30人。そのうち11人は「0日」、2人が「0カ月」で亡くなっている。心中以外の虐待死の4〜6割が0歳児、その中の4割程度が「0日または0カ月」との傾向は、少なくともこの十数年変わらない。
では、0歳児虐待死の問題を、どう解決すべきか。
目黒の事件を受けて、NPO法人の代表、医師、著名人らが「なくそう!子どもの虐待プロジェクト2018」を立ち上げ、「児童虐待八策」と題された提言をインターネット上で行っている。
この連載でも指摘したように、私自身は、児童虐待八策中の「児相の虐待情報を警察と全件共有をすること」との提言は、行き過ぎだと考えている。他方、「若年妊娠リスクや子育てについて早期から知る、包括的性教育を義務教育でしてください」という提言は、新生児虐待死の実態を踏まえれば、極めて重要だと考える。
厚労省の調査によれば、「0日または0カ月」の虐待死加害者の90%以上が「実母」だ。また、03年の調査以降、0日での虐待死事案124人のうち、57人の実母が24歳以下となっている。
新生児虐待死は、妊娠・出産そのものが望まれていなかったことによるものも多いだろう。望まない妊娠は、性的知識が不足していることによっても生じる。虐待死防止には、かなり若い段階から、適切な性教育を行うことが必要なのは明らかだ。
また、たとえ適切な性教育を受けても、望まない妊娠はあり得る。望んだ妊娠であっても、妊娠中はさまざまな不安があるものだ。そうした不安を解消するため、妊娠中の女性やそのパートナーへの相談・支援を拡大しなければならない。
さらに、出産後の養育に困難がある人のために、社会で子どもを育てるという発想も必要だ。子どもの養育は、必ずしも生みの親でなくてもできる。生みの親に、子育ての困難があるのならば、養護施設や里親に預かってもらいながら、できる範囲で子育てに関わっていくという選択肢もあろう。
また、世の中には、実子をもつことができなかったが、子育てをしたいと願っている人もいる。生みの親との関係を断って、新たな親子関係を築く特別養子縁組制度についても、国民の理解を広げてほしいと思う。
子どもの成長を見守るのはとても楽しいが、当然、大変な面もある。育児を家族だけで負うのは困難だ。子育ての楽しさと困難を、社会で分かち合う必要がある。(首都大学東京教授、憲法学者

(非正規率全国一)政府の対応が不可欠だ - 沖縄タイムズ(2018年7月15日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/283732
https://megalodon.jp/2018-0715-1009-01/www.okinawatimes.co.jp/articles/-/283732

パートや有期契約、派遣などで働く県内の非正規労働者が過去最多の25万3800人となったことが、総務省の2017年就業構造基本調査で明らかになった。雇用者全体に占める割合は43・1%に上り、5年前の前回調査に引き続き全国一の高さである。
非正規は全国的にも増えているが、その平均割合は38・2%。最も低い徳島は32・6%で、沖縄とは10ポイント以上の開きがある。
働く人のおよそ2人に1人が、賃金が安く身分が不安定な非正規という現実は深刻だ。
県内景気は58カ月連続で「拡大」し、経済は好調だというのに、雇用の「質」がなかなか改善されないのはなぜなのか。
指摘されるのは、サービス業など第3次産業に極端に偏る産業構造である。仕事の繁閑が大きく、製造業に比べて低いとされる労働生産性が長期の安定した雇用を阻んでいる。
資本力の弱い中小零細企業が大部分を占めていることも影響している。
フルタイムで働いても非正規の平均月給は正社員の7割に届かない。同じ仕事をしているにもかかわらず、身分の違いだけで、これだけ差が生じるのは不合理である。
本土との格差の代名詞とされる1人当たりの県民所得が全国最下位なのも、沖縄の極めて厳しい子どもの貧困率も、全国一低い大学進学率も、生涯未婚率の高さも、雇用の質と密接に絡み合っている。
これ以上放置できない問題だ。

■    ■

中でも深刻なのは若者の雇用を巡る状況だ。
15歳から34歳までの若年者の非正規率は44・4%とさらに悪く、こちらも全国一だった。
高校や大学を卒業して最初の就職先が非正規というのは珍しくない。しかし社会人の入り口での不安定雇用は働くことへの意欲をそぐばかりか、格差の固定化を招きかねない。
調査では、1年前と現在の勤め先が異なる転職者率も公表され、県内は6・7%と最も高かった。
若者の離職率の高さは雇用の「ミスマッチ」ということもあるのだろうが、労働条件の悪さなど働き続けることが困難な現実にしっかり向き合う必要がある。
沖縄の将来を担う世代の能力を生かすことができないのは、社会にとって大きな損失だ。

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非正規を雇用の調整弁と考えている企業もあるかもしれない。ただ2人に1人という現実は深刻で、一企業での解決は困難である。一自治体で取り組める話でもない。
製造業が育成されないなど産業構造の問題は、米軍統治下で「基地依存型輸入経済」を余儀なくされた経済政策を引きずるものだ。
安倍晋三首相が何かにつけ「私が先頭に立って、沖縄の振興を前に進めていく」と話すのは、沖縄振興を国の責務と自覚しているからだろう。
政府と県が一体となって構造転換や生産性の向上を促す新しい施策を打ち出す時だ。

戦争体験 ゆんたく  世代超え少人数対話  県博でイベント - 琉球新報(2018年7月15日)

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-762019.html
http://archive.today/2018.07.15-011023/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-762019.html

子ども時代に沖縄戦や南洋戦を経験し生き延びた戦争体験者の証言を聞く企画「戦災被害の元子供たちを囲むゆんたく」(戦場体験放映保存の会、沖縄・民間戦争被害者の会主催)が14日、那覇市の県立博物館・美術館で始まった。16日まで。戦争体験者1人に対し、戦後生まれの世代数人がグループを作って対話しながら戦争体験を聞いた。戦争体験の証言を展示した「体験談パネル展」も同時に開催された。
戦場体験放映保存の会は、2016年ごろから東京などで「茶話会(さわかい)」と題して地元の戦争体験を少人数で聞く場を設けてきた。沖縄での開催は初めて。事務局次長の田所智子さんは「少人数で話すことで、話し手の人柄などもより聞き手に身近に感じられる。話し手も話しやすい」と利点を強調した。
3日間で計約20人の戦争体験者が少人数のグループに分かれて戦争体験を語る。初日の14日に戦争体験を語った野里千恵子さん(82)は1944年の10・10空襲で祖母を亡くし沖縄戦で父が犠牲になった。野里さんは「戦争は人の命を当たり前のように奪い、苦しめる。繰り返してはいけない」と強調した。
戦前、家族でパラオに住んでいた柳田虎一郎さん(80)は、44年9月ごろ、日本へ軍艦で帰る途中、米潜水艦で攻撃を受け、たどり着いたフィリピンのミンダナオ島で母や弟を亡くした状況などを証言した。同島で食糧を運ぶ避難民の日本人女性を日本兵が銃剣で刺殺し、強奪した場面にも遭遇したことも語った。
柳田さんの戦争体験を涙ぐみながら聞いた高橋えりさん(42)=那覇市=は「母は柳田さんの2歳下で、戦争中に同じミンダナオ島のジャングルを逃げた」と母が置かれていた状況に思いをはせ、「具体的な話が聞けて、とても貴重な体験になった」と語った。
「戦災被害の元子供たちを囲むゆんたく」は15、16の両日とも午前10時半、午後1時、午後2時半の1日3回行われる。「体験談パネル展」は午前10時から午後5時まで。沖縄戦や南洋戦争の体験者35人の証言などを紹介している。
問い合わせは戦場体験放映保存の会(電話)090(2165)0220。