木村草太の憲法の新手(98)校則問題(下)丸刈り強制は違憲で違法 - 沖縄タイムス(2019年2月17日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/385914
https://megalodon.jp/2019-0217-1505-19/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/385914

県民投票は告示にこぎつけた。校則問題の検討に戻ることにしよう。(1月6日付の「校則問題 上」に続く)

kodomo-hou21.hatenablog.com

校則それ自体には、法的拘束力がないことは確認された。今回は、今後の校則の在り方を考えよう。
第一に、法的権限の行使基準としての校則を作ること、それ自体を否定する必要はない。職員室に呼び出しての指導にせよ、懲戒処分にせよ、統一的な基準なしにこれを行えば不公平が生じる。
この点、学校教育法施行規則26条5項は、「学長は、学生に対する第2項の退学、停学及び訓告の処分の手続を定めなければならない」と定める。この規定が要求するのは「手続法」のみだが、公平確保のためには、何をすると懲戒対象になるのかという「実体法」についても、ルールを明確にした方が、法令の趣旨にかなうだろう。
第二に、校則を作る場合には、法的根拠を明確にすべきだ。一口に校則といっても、「懲戒処分基準」と「施設管理権に伴う要求事項」とでは、法的根拠が異なる。校則の妥当性をチェックする際には、この違いが重要だ。したがって、校則は、「○○校懲戒基準」とか、「○○施設利用規則」といった形で、法的根拠ごとに分類して定めるべきだ。
第三に、違反時の扱いの明記も重要だ。「規則が合理的だ」と言えるには、違反に対する制裁の程度が適切であることも必要だ。前回紹介した裁判例のように、校則に「男子は丸刈り」と書いてあった場合、学校で強制的に丸刈りにするなら人権侵害だが、違反者に何もしないなら、問題にする必要はない。よって、校則には、違反者に対して、懲戒処分や強制を行うのか、それとも学校の希望を伝えるにとどまるのかを明記すべきだ。違反時の扱いが定められていない場合には、懲戒処分や強制を予定しないものとして扱うべきだろう。
第四に、校則による処分・強制の適法性を担保する仕組み作りが必要だろう。ここで重要なのは、処分や強制の適法性は、法律や判例を基準に判断されるという点だ。しばしば、校則の策定は、生徒自身やPTAが関与すべきとも言われる。しかし、生徒やPTAは法律の専門家ではない。また、「自分は丸刈りが好きだから、他の子どもにもそれを強制したい」と考える生徒が多数派だったとしても、丸刈り強制は人権侵害であり、違憲・違法だ。校則の適法性の担保のために必要なのは、生徒らの関与ではなく、弁護士など法律専門家の助言や関与だろう。
第五に、校則違反者へのいじめ防止も必要だ。校則違反者に対しては、しばしば、児童・生徒による嫌がらせが行われる。しかし、校則は、教育や施設管理のために存在するのであって、子どもたちがいじめのターゲットを選ぶ基準ではない。
特に、「子どもたち自身が作る校則」は、違反者への憎しみを募らせやすく、いじめを誘発する危険を持つ。学校には、いじめ防止義務がある。「子どもたちが自ら話し合って決めたルールだから」と安易に校則化するのは、少数派に対する抑圧となる。必要のない校則は、作らない方がよいだろう。
このように、校則問題は、処分や強制の適法性を問い、法的根拠を分析することで解決すべきである。(首都大学東京教授、憲法学者)=第1、第3日曜日に掲載します

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お知らせ 本コラムを収録した書籍「木村草太の憲法の新手」(沖縄タイムス社、1200円)は、県内書店で販売されています。

木村草太の憲法の新手

 

木村草太の憲法の新手(97)県民投票改正条例が成立 各選択肢の意味を明確に - 沖縄タイムス(2019年2月3日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/381362
https://megalodon.jp/2019-0205-1610-09/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/381362

1月29日、沖縄県議会で、「賛成」「反対」に加え、「どちらでもない」との選択肢を設ける県民投票条例改正が成立した。これを受け、投票事務拒否を表明していた五つの市でも、県民投票が実施される見込みとなった。全県実施となり、県民の投票権が確保されたのは大変好ましい。ただ、幾つか注意すべき点もある。
第一に、投票において「どちらでもない」との選択肢が許されるのは、県民投票の特性によるものだ。国政選挙、地方選挙や憲法改正国民投票では、そのような選択肢を設けることは許されない。
法的に見たとき、選挙や憲法改正国民投票の場面では、各有権者は、議員選定権限や憲法改正権を担う「権力者」としての決断を求められる。ここでは、「どちらでもない」などと、決定を先送りする選択肢を設けるのは不適切だ。
これに対し、今回の県民投票を含め、いわゆる住民投票は、行政機関(今回は県知事)が権限行使する際の参考として、住民の意識を調査するものだ。つまり、選挙よりも、パブリックコメントやデモ行進に近く、決断責任は、あくまで県知事にある。それゆえ、「どちらでもない」との消極的選択も許された。そう理解すべきだろう。
第二に、県議会は、今回の経緯が、「違憲・違法の投票権侵害行為に譲歩した前例」と位置付けられないように努力せねばならない。
これまで指摘してきたように、投票事務拒否は、憲法が保障する平等権や意見表明権の侵害だ。もしも選択肢追加によって、もともとの県民投票よりも不適切なものになったのであれば、それは「違憲行為への屈服」であり、許されない。そうだとすれば、今回の条例改正は、「交渉の中で、よりよい選択肢の在り方が発見された事例」として説明されなくてはならない。そのためには、「どちらでもない」という選択肢を加えた方が、元の県民投票よりよいものになる理由を、県議会は説明すべきだろう。
第三に、投票前に「各選択肢の意味」を確定する必要がある。改正県民投票条例10条は、県知事は投票結果を尊重しなければならない、と定める。もしも、「どちらでもない」との投票が多くなった場合、どうすれば県知事は投票結果を尊重したことになるのか。この選択肢の示す住民の意思はあまりに不明確だ。
これを曖昧なままにしておくと、工事反対派は「積極的賛成でないのだから反対の一種だ」と主張し、逆に、国は「反対多数でないのだから、工事を進めて良いのが民意だ」と主張するといった混乱を招くだろう。こうした事態を避けるには、事前に「どちらでもない」の意味を明確にしておくべきではないか。そうすれば、投票権者は意味を十分に理解して投票でき、県知事も解釈に戸惑う必要はなくなる。
この点、「どちらでもない」の意味の説明責任は、議決した沖縄県議会にある。賛成・反対以外の選択肢を設けるべきだと主張した自民党公明党も含め、県民に対してしっかりと説明すべきではないか。また、玉城デニー知事は、そうした説明を踏まえ、玉城氏自身がそれをどう受け止めるつもりかについて、声明を出しておくべきだろう。(首都大学東京教授、憲法学者

 

木村草太の憲法の新手(96)県民投票への不参加問題 市の主張、法律論にならず 条例に事務遂行の義務 - 沖縄タイムス(2019年1月20日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/374571
https://megalodon.jp/2019-0120-1016-37/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/374571

問題の核心は、県民投票の条例が、住民投票を実施するか否かの選択権(裁量)を各市町村に与えているかにある。
この点、宮崎政久衆院議員は16日の記者会見で、市町村に投票事務執行義務があるとの「断定的な判断ができない」と主張した。しかし、同条例5条1項は「県民投票は」「実施しなければならない」と定め、同13条も、投開票事務を「市町村が処理する」と断言している。つまり、県や市町村が県民投票の実施を怠ったり、妨げたりすることは認めていない。条例を読む限り、どう考えても、投票事務遂行は義務だ。
とはいえ、条例自体が違憲・違法なら、事務遂行の義務付けは無効だ。では、県民投票不参加の市は、条例の違憲・違法の説明に成功しているか。
不参加を表明した市長らは、第一に、「賛成・反対」の2択は不適切で、「やむを得ない」や「どちらとも言えない」などの選択肢を設けるべきだと主張する。しかし、「やむを得ない」は「賛成」の一種だし、「どちらとも言えない」なら白票を投じればよい。そもそも、「県民投票に多様な選択肢を設けねばならない」と定めた憲法・法律の規定はない。したがって、2択だからといって、条例は違憲・違法にはならない。
第二に、地方自治法252条の17の2は、県の事務を条例で市町村に処理してもらう場合に、事前の「協議」が必要だとしているところ、今回は、市町村が同意できるだけの事前協議がなかったので、条例は違法だとする趣旨の批判もある。
しかし、地方自治法が要求するのはあくまで「協議」であって、市町村の「同意」までは要求していない。県は、市町村との協議を踏まえ条例を制定しており、法律上の瑕疵(かし)はない。
第三に、県民投票は、憲法が保障する市の自治権侵害との批判もある。確かに、投票事務遂行が、市に過酷な財政負担を課したり、他の事務遂行を困難にしたりするのであれば、そうした主張も成り立ちうる。しかし、今回の県民投票では、地方財政法28条に基づき、各市町村に県予算が配分されるから、市の財政的負担はない。また、例えば、大規模災害の直後で災害対応に手いっぱいといった事情があるならともかく、今回の投票事務遂行によって、他の業務が大規模に滞るなどの主張は聞かれない。
第四に、不参加方針の市長はいずれも、事務執行予算の再議を否決した市議会の議決は重いと強調する。しかし、仮に、市議会が、「女性県民の投票事務に関わる予算」を否決したとして、市長が「市議会の議決は重い」として男性だけの投票を実施すれば、違憲であることは明白だろう。市議会には、憲法が国民に保障する平等権や意見表明の権利を侵害する権限などない。市議会の決定ならば、県民の権利を侵害してよいなどという理屈は、民主主義の下でもあり得ない。
このように不参加方針の市の主張は、いずれも法的な事務遂行義務を否定する法律論になっていない。各市は、一刻も早く、投票事務の執行に取り掛かるべきだ。(首都大学東京教授、憲法学者

萬平さんも屈した 「人質司法」が変わらぬわけ 勾留理由開示(下) - 共同通信(2019年1月12日)

https://this.kiji.is/456337004541035617?c=39546741839462401
http://archive.today/2019.01.13-010333/https://this.kiji.is/456337004541035617?c=39546741839462401

「よんぱち・にーよん・とーか・とーか」。カルロス・ゴーン日産前会長の勾留理由開示の報道で、30年以上前の入社直後に覚えた“呪文”を思い出した。それと一緒に暗記したのは「巡査」から始まり「警視総監」で終わる警察官の階級だった。

報道機関に入社した新人記者の多くは、まず警察を担当する。いわゆる「サツ回り」だ。「よんぱち・にーよん・とーか・とーか」は、被疑者が警察に逮捕された場合の警察・検察の“持ち時間”である。
警察は逮捕から48時間以内に被疑者の身柄を検察庁に送り、検察官は24時間以内に裁判所に勾留請求し、勾留は10日間ずつ2回認められる。それぞれの節目で起訴されたり、釈放されたりすることがあり得るので、取材の必須ポイントとなる。
記者生活がサツ回りから始まること自体を「権力寄りの姿勢や発想になじんでしまう」などと批判する人も多い。だが、サツ回りが権力監視の姿勢や権力との距離感を学ぶ場だとしたら、初歩の段階で警察を担当する利益はむしろ大きいはずだ。最も直接的に人権を抑圧することのできる機関だから。
そのように抗弁するためには、人権を奪うことの重大性と、人権を保障するシステムの大切さを知ることが前提となる。警察や検察の持ち時間も、捜査当局の仕事を制限しているのでなく、被疑者の人権を守る仕組みとして理解されるべきなのだ。
ところが、なかなかそうはならない。それはメディア組織が総じて、少数者・弱者に目を向けず、その実情に迫る姿勢に乏しかったことに起因する。苦い自省を込めてそう思う。事件における少数者・弱者とは、異論があるかもしれないが、被害者と加害者(または被疑者・被告・受刑者)である。もちろん両者の親族も含まれる。
身柄を長期にわたって拘束する日本の「人質司法」が変わらないのも、人権に対して鋭敏でないメディアのありようが大きな要因なのではないか。
被疑者の実情とはどのようなものか。逮捕されると連日、厳しい取り調べを受ける。取り調べのない時間も、24時間の監視下に置かれる。それもつらいが、日常の人間関係や社会的な関係から切り離されることはもっと過酷かもしれない。
外部との通信や交流は遮断、または制限される。接見禁止処分が付けば、家族とも面会できない。ゴーン前会長は1月9日に高熱を出した。心配する妻キャロルさんは「(最初の逮捕日から)彼と連絡を取ることを許されていないので、私の情報は報道だけに限られている。日本の当局は彼が診療所に運ばれたのか教えてくれないし、拘置所の医療関係者と話させてもくれないだろう」という声明を出した。
自分の身にそんなことが起こったら、とても耐えられそうにない。早く出してもらえるなら、何でも認めてしまいそうだ。それより先に心身に異常を来すかもしれない。実際そういう人が少なくないので、精神医学には「拘禁反応」という診断名もある。
こうした強制捜査は制限的であるべきだというのが法の精神だ。本来、捜査は「任意」が原則なのだ。だから逮捕や勾留については、法律で要件や手続きが厳密に定められている。だが、身柄の拘束が長期化するケースは後を絶たない。最近では学校法人「森友学園」の前理事長、籠池泰典被告と妻諄子被告の299日という例もあった。

NHKの連続テレビ小説まんぷく」の年末最後の回では、萬平さんがこの「人質司法」に屈した。国を相手にした訴訟(正当性は萬平さんの側にある)を取り下げたら釈放してやるという取引に応じたのだ。ふくちゃんの説得によって。
専門家の中には、これは人質司法ではないと言う人もいるかもしれない。人質司法はふつう、被疑者の身柄を長期拘束することによって、捜査当局が自らの主張・立証に有利な供述を引き出すことを指す。最悪の結果は虚偽自白による冤罪である。
まんぷく」のケースは、取り調べ段階ではなく服役中であること、取引の内容が供述ではなく訴訟の取り下げであることなどが、上記の説明とは異なる。だが、人質司法は法律用語と違って厳密な定義があるではない。身柄を拘束することで、当局側が被疑者・被告人・受刑者らと有利な取引をする。広義ではそうとらえていいだろう。
さて「まんぷく」のこの回を見たみなさんはどう感じただろう。
正義を貫くべきなのに屈服したのは不満だと思う人、自由の回復を最優先するふくちゃんの説得にうなずく人、あるいはこのような理不尽な取引を強要する権力側に憤る人…。
だが、さして怒りも覚えず、ドラマの一場面として通り過ぎてしまったとしたら、それこそ人質司法を許してしまうことにつながっているかもしれない。(47NEWS編集部、佐々木央)

憲法の骨抜きあらわに 「ゴーン劇場」が示したこと  勾留理由開示(上) - 共同通信(2019年1月11日)

https://this.kiji.is/456296023422223457?c=39546741839462401
http://archive.today/2019.01.13-010517/https://this.kiji.is/456296023422223457?c=39546741839462401

法廷にいた人たちに疑問や不満はなかったのだろうか。カルロス・ゴーン日産前会長の勾留理由開示の法廷のことだ。
憲法に根拠を持つ重要な人権保障の手続きだが、報道を見る限り、無実を訴えるゴーン前会長ばかりがクローズアップされた。
勾留理由開示という看板に偽りがないなら、この法廷の主役は明白だ。勾留を認めた裁判官である。その人が語る主題は「勾留を認めた理由」でなければならない。では裁判官は何をどのように語ったのか。
映像の中継はないから、新聞各紙を読み比べた。ところが主役であるはずの裁判官の姿は、ゴーン前会長の陰に隠れ、なかなか見えてこない。
裁判官に関連した記述で比較的詳しいものを拾ってみる。まず読売新聞1月8日夕刊1面。

― 多田裁判官はこうした容疑を説明した上で、勾留理由について「事件の内容や性質、被告の供述などから、被告が関係者に働きかけて証拠隠滅を行う恐れがある」と説明。「国外にも生活拠点を置いていることから逃亡の可能性も疑われる」とも述べた―
裁判官の説明は形式的だ。さらなる追及にはどう答えたか。朝日新聞夕刊の1面。

―一方、ゴーン前会長の弁護人は多田裁判官に対し、逮捕容疑について損害を与えたと疑う根拠などを明らかにするよう求めたが、多田裁判官は「捜査中の事件でもあるので、明らかにできない」と答えた―

各紙とも主役と主題はそっちのけで、ゴーン前会長の陳述に多くのスペースを割いている。中にはゴーン前会長の陳述全文を掲載した新聞もあり、無実を訴える「ゴーン劇場」のおもむきを呈した。
ここで法の原則を確認したい。憲法34条を引く。
「何人も、理由を直ちに告げられ、かつ、直ちに弁護人に依頼する権利を与えられなければ、抑留または拘禁されない。また、何人も、正当な理由がなければ拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人およびその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない」(一部の漢字を平仮名に、旧仮名遣いは現代新仮名遣いに改めた)
後半の「要求があれば、その(拘禁の)理由は、直ちに本人およびその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない」という文言が、勾留理由開示の直接の根拠となっている。これを受けて刑事訴訟法82条から86条は、請求者の範囲などを定めた。開示法廷の内容については84条が次のように規定する。

第1項 法廷においては、裁判長は、勾留の理由を告げなければならない。

第2項 検察官または被告人および弁護人ならびにこれらの者以外の請求者は、意見を述べることができる。
これを見て、今回の勾留理由開示の手続きは何の問題もないという人もいるだろう。

だが裁判官が告げたという容疑事実は、この事件に多少関心を持つ人なら誰でも知っている内容だ。逃亡や証拠隠滅の恐れというのは、勾留の要件として同じ刑訴法に定められている事項そのものである。裁判官がそのように判断していることは、勾留を認めたという事実から明白なのだ。
憲法がわざわざ、公開の法廷で勾留理由開示を行えと指示したのは、そんな形式的なことをさせるためではない。当該事件について具体的に、なぜ容疑があると判断したのか、どのような事情から証拠隠滅や逃亡の恐れがあると認定したのかを示さなければならない。
少なくともゴーン会長が無実だと力説したのだから「いや、あなたの容疑性は相当高いですよ」などと反論し、最低限の根拠を示さなくてはならないだろう。それが憲法の求めていることだと思う。
「逃亡の恐れがある」というのも、常識的に見ておかしい。あれだけ有名で顔も知られている人が逃げ隠れできるだろうか。もし自由を取り戻したら、ルノーのトップとして、あるいは日産の取締役として、まず権力闘争に決着をつけようとするのではないか。
そのような当然の疑問に裁判官は一切、答えなかった。
勾留理由開示の手続きは司法官僚によって骨抜きにされ、一般的にこのような形で虚しく行われている。この手続きを知らなかった人も多いはずだ。制度が形骸化しているから、使う人がほとんどいない。勾留された人に、弁護士がこの権利があることを伝えないケースさえあるという。
読売新聞の1月8日夕刊社会面が、今回のいきさつを伝えている。年末に弁護士がこの手続きを提案し、ゴーン前会長が「そういう制度があるなら利用したい」と意欲を示したという。
3回目の逮捕まで制度を知らせていなかったことには疑問を持つが、それでも利用できて良かった。
社会から隔離されていたゴーン会長が、人々に向けて自分の言葉で無実を訴えることができたから。そして私たち市民にとっては、日本の刑事司法の問題点がまた一つ、はっきりと示されたから。(47NEWS編集部、佐々木央)

木村草太氏が緊急寄稿 「県民投票不参加は憲法違反」 - 沖縄タイムス(2019年1月7日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/368131
https://megalodon.jp/2019-0107-0954-14/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/368131

沖縄県名護市辺野古の新基地建設是非を問う県民投票について、下地敏彦宮古島市長が不参加を改めて表明するなど、県が全41市町村の参加を呼び掛ける一方、実施する方針の市町村は現時点で35にとどまる。県民投票の事務処理拒否は、憲法上も問題があると指摘する木村草太首都大学東京教授が本紙に寄稿した。
沖縄県議会で昨年10月に成立した住民投票条例に基づき2月24日、辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票が実施されることになった。地方自治法252条の17の2は、「都道府県知事の権限に属する事務の一部を、条例の定めるところにより、市町村が処理することとすることができる」とする。今回の住民投票条例13条は、この規定を根拠に、投票に関する事務は「市町村が処理する」こととした。
なぜそうしたのかと言えば、投票所の設置や投票人名簿の管理は、国や県よりも地元に密着した市町村が得意とする事務だからだ。つまり、今回の事務配分は、各市町村に投票実施の拒否権を与えるためではなく、あくまで県民投票を円滑に実施するためのものだ。
しかし、宜野湾市宮古島市で、県民投票の事務処理を拒否する動きが進んでいる。この動きには、地方自治法・県条例のみならず、憲法の観点からも問題がある。
一番の問題は、憲法14条1項が定める「法の下の平等」に反することだ。一部の市町村で事務執行がなされないと、住んでいる場所によって「投票できる県民」と「投票できない県民」の区別が生じる。「たまたま特定の市や町に住んでいた」という事実は、県条例で与えられた意見表明の権利を否定するだけの「合理的な根拠」とは言えない。したがって、この区別は不合理な区別として、憲法14条1項違反だ。
この点、投票事務が配分された以上、各市町村は、その区域に居住する県民に投票権を与えるかどうかの選択権(裁量)を持つはずだとの意見もある。しかし、「県条例が、そのような選択権を認めている」という解釈は、県民の平等権侵害であり、憲法14条1項に反する。合憲的に解釈するならば、「県条例は、そのような選択を認めていない」と解さざるを得ない。
この点については、昭和33年(1958年)の最高裁判決が、「憲法が各地方公共団体条例制定権を認める以上、地域によって差別を生ずることは当然に予期されることであるから、かかる差別は憲法みずから容認するところ」との判断を示していることから、自治体間の差異は許されるのではないか、との疑問を持つ人もいるかもしれない。
しかし、この判決は、各自治体の条例内容の差異に基づく区別についての判断だ。今回は、各市町村が自らの事務について独自の条例を定める場面ではなく、県条例で与えられた県民の権利を実現する責任を負う場面だ。最高裁判例の考え方からも、地域による差別は許容されない。
さらに、平等権以外にも、問題となる権利がある。県民投票は、県民全てに開かれた意見表明の公的な場である。県民の投票へのアクセスを否定することは、憲法21条1項で保障された「表現の自由」の侵害と認定される可能性もある。さらに、憲法92条の規定する住民自治の理念からすれば、「県政の決定に参加する権利」は、新しい権利として憲法13条によって保護されるという解釈も成り立ちうる。
このように考えると、各市町村の長や議会には、県民の憲法上の権利を実現するために、「県民投票に関わる事務を遂行する義務」がある。議会が関連する予算案を否決したり、長が地方自治法177条の原案執行を拒否したりするのは、この義務に反する。訴訟を検討する住民もいると報道されているが、市町村が事務執行を拒否した場合、裁判所も厳しい判断をする可能性がある。
もちろん、「県民投票反対の市民の声を代表しなくてはならない」との責任感を持つ市町村長や議員の方々がいるのは理解できる。しかし、宜野湾市宮古島市にも、県民投票に参加したいと考える市民は多くいる。そうした市民の声にも耳を傾けるべきだろう。
ちなみに、県条例は棄権の自由を認めているから、県民投票反対の県民は、市長や市議会議員に代表してもらわなくても、棄権という形で抗議の意思を表明できる。市民全員に棄権を強制することは不合理だ。
前回の参議院議員選挙では、徳島県と合区選挙となった高知県で、大量に「合区反対」と書いた棄権票が投じられたことが話題となった。今回の県民投票でも、棄権票に「県民投票反対」と書いて、強い反対の意思を表示することもできる。宜野湾市で、千単位、万単位のそのような棄権票が出れば、大きな話題となるはずだ。
県民投票は、県民の重要な意見表明の機会だ。沖縄県内の市町村長・議会議員の方々には、ぜひ、県民の権利を実現する憲法上の義務のことも考えてほしい。(首都大学東京教授、憲法学者

きむら・そうた 1980年、横浜市生まれ。東京大学法学部卒業、同大助手を経て2006年から首都大学東京准教授、16年4月から教授。主な著書に「憲法の創造力」や共著「憲法の条件―戦後70年から考える」など多数。本紙に「憲法の新手」連載中。ブログは「木村草太の力戦憲法」。ツイッターは@SotaKimura。

木村草太の憲法の新手(95)校則問題(上) 下着の色は教育と無関係 - 沖縄タイムス(2019年1月6日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/367997
https://megalodon.jp/2019-0106-1400-11/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/367997

大阪府立懐風館高校で、髪の黒染めを厳しく指導された生徒が不登校になり、府を訴えた。この報道以来、校則問題に注目が集まっている。

まず、日本国憲法の下では、児童・生徒を含め、個人は自由であるのが原則で、それを制限するには、法的根拠が必要だ。しかし、「児童・生徒は校則に従わなくてはならない」と定めた法律はない。つまり、法的には「校則そのもの」は、自由制約を正当化する根拠とはならない。
もっとも、学校は、教育機関として、在籍児童・生徒に教育に必要な指示や要求を出せる。また、学校教育法11条は、教育上必要がある場合に、児童・生徒らの懲戒処分を行うことを認める。加えて、学校の運営者は、建物や校庭など施設の管理権を持つ。
このため、学校は、「校内喫煙の場合、一回目は訓告、二回目は退学」、「敷地内へのバイク進入禁止」等、法的権限を行使する基準を定めることができる。こうした法的権限の行使基準が、「校則」と呼ばれることもある。法的権限の行使基準は、児童・生徒を縛るものではなく、学校の権限行使に枠をはめるものと理解すべきだろう。
では、この法的権限の行使基準の内容が、教育上不要・不合理な場合には、その基準に基づく指導や処分は適法と言えるのだろうか。
この点、過去に、「自動車免許を無断で取得した学生に退学勧告を出す」と定めた校則に基づく措置の適法性が、最高裁まで争われたことがある(修徳高校事件)。
免許取得は法令で18歳以上に認められており、単なる免許取得を理由に退学させるのは厳しすぎるだろう。そこで、最高裁は、「校則の規定だけで、退学勧告は正当化される」とは述べなかった。ただ、問題の退学勧告は、日ごろの非行の積み重ねの結果として正当化できる、とした。
つまり、指導や処分の基準となる校則が定められていても、「校則に即していれば直ちに処分等が適法とされる」というわけではない。校則の内容が法の趣旨に反する場合には、校則に基づく処分であっても違法とされる。
他方で、学校の法的権限行使と無関係な校則には、法的効果はない。それは、「学校からのお知らせ」や「校長先生のポエム」にすぎない。例えば、下着の色は教育と無関係だから、学校に指導権限はない。よって、下着の色を指定する校則があっても、法的には、生徒はそれを無視できるし、指導の呼び出しに応じる義務もない。教員が下着の色を強制的に確認すれば、強要罪にもなり得よう。
この点、公立中学の丸刈り校則の適法性が争われた熊本地裁判決では、「唯一人の校則違反者である原告に対しても処分はもとより直接の指導すら行われていない」という運用を根拠に、丸刈り指導自体は適法とした。
私には、丸刈りを生徒に求める合理的理由がわからず、そもそもそのような要求をやめるべきだと思う。しかし判決は、丸刈りを強制すれば違法だが、法的効果のない「丸刈り推奨」(いわば、丸刈りポエム)は止める理由もない、と考えたのだろう。
このように、校則それ自体からは、法的効果は発生しない。次回は、これを前提に、校則の今後を考えたい。(首都大学東京教授、憲法学者

<死刑を考える>教誨師 「加害者にも目を向けて」 - 東京新聞(2018年12月31日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018123102000104.html
https://megalodon.jp/2018-1231-1019-48/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018123102000104.html

広島拘置所のボランティアとして三十年間、死刑囚に寄り添ってきた教誨(きょうかい)師がいる。日本キリスト教団広島西部教会牧師の山根真三さん(74)。これまで三人の死刑囚を支え、刑執行の現場も立ち会った。「死刑囚も同じ一人の人間。被害者や遺族はもちろん、加害者にも目を向けてほしい」と願う。 (奥村圭吾)
一九八八(昭和六十三)年、知人の牧師の紹介で教誨を引き受けるようになった。直後に担当したのが、八四年に広島県福山市で発生した「泰州(やすくに)くん誘拐殺人事件」の津田暎(あきら)元死刑囚=執行時(59)。自分が指導する野球チームの男児を身代金目的で誘拐、殺害して死刑判決を受けた。
「人は誰しも心の中で怒り、憎しみ、人殺しをしているようなもの」「あなただけが特別ではなく、皆同じ土俵の人間なんです」
一日一時間、月二回の教誨を続けるうち、津田元死刑囚はキリスト教の考えを受け入れるようになり、四年後には洗礼も受けた。
九八年十一月。体調を崩した山根さんが、翌日の教誨中止を拘置所に申し出ると、職員から思いも掛けない言葉が返ってきた。「実は明日、執行があるんです」
急いで拘置所に向かった山根さんが持ち込んだのは、津田元死刑囚がファンだった歌手マライア・キャリーセリーヌ・ディオンのビデオ。「ものすごく、ええなぁ」。十年間で一番の笑顔でスクリーンを見つめていた。
翌朝、教誨室で再会した津田元死刑囚の顔色は蒼白(そうはく)だった。それでも「神様のところに行きます」と言い残し、旅立った。
執行後、刑務官らの顔はこわばり、刑場は極度の緊張感に包まれていた。「とても悲しく、後味が悪かった。もう二度とない方がいいと思った」と振り返る。

 ◇ 

「確定から一年たったんで。早く執行してください」。九九年に山口県下関市で通行人らを車で次々とはねるなどして十五人を死傷させた「下関通り魔殺人事件」の上部(うわべ)康明元死刑囚=執行時(48)=に言われた言葉を、山根さんは忘れられない。
「病気の余命宣告をされたようなもの」「生きる努力をしないといけない」。説得は二時間に及んだ。納得してくれたかと思ったが、その日を最後に教誨を頼まれることはなくなった。拒否の理由は「あなたは私を殺してくれないから」。三年後の二〇一二年三月、刑は執行された。
今も自ら死刑を望み、事件を起こす凶悪犯は後を絶たない。現在、三人目の死刑囚を受け持っている山根さんは「死刑が重犯罪の抑止につながっているかは疑問」と話す。
死刑に反対するのは、日本が憲法九条を通じて非戦を誓う国だから。「国家が人を殺す点では戦争も死刑も同じ。戦争を否定して、死刑だけを認めるのは矛盾していないか」

教誨師> 拘置所や刑務所、少年院を訪れ、希望者に宗教の教義に基づく話などをボランティアで行う宗教家。1872(明治5)年7月、真宗大谷派の僧侶が名古屋監獄(現・名古屋刑務所)の前身である徒場で囚人に対する説教を行ったのが始まり。今年1月現在、全国教誨師連盟に1846人が登録。内訳は、仏教系1199人、キリスト教系262人、神道系222人、諸教163人となっている。

<死刑を考える>(下)〜飯塚事件より〜 - 東京新聞(2018年12月29日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018122902000121.html
https://megalodon.jp/2018-1229-0953-02/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018122902000121.html

「私はまだ死刑確定の新参者。時間はあるから、慌てなくてもいいですよ」
二〇〇八年九月、暑さが残る福岡拘置所。その日の死刑囚はいつもより明るかった。面会室のアクリル板越しに、弁護人らに見せたA4判の紙。確定順に死刑囚の名前が並ぶ中、自身の名前は後ろの方に記されていた。
再審請求の準備を焦る弁護人をなだめるように、「私はやってないから、必ず罪は晴れます」。しかし、この面会から三十九日後、久間三千年(くまみちとし)死刑囚の刑は想定外の早さで執行された。七十歳だった。
一九九二年二月、福岡県飯塚市で登校中の女児二人=いずれも当時(7つ)=が誘拐され、殺害された通称「飯塚事件」。直接的な証拠がない中、久間元死刑囚は事件から二年七カ月後に逮捕された。「一切やっていない」。ただの一度も自白しなかった。
だが、被害者の遺留品が見つかった山間部では、車で通りがかった男性が路肩に止まった車と男を目撃していた。タイヤのホイールキャップのラインや、窓ガラスの色つきフィルム、後輪のダブルタイヤ…。すれ違ったわずか数秒で十数個の特徴を言い当てた。証言はいずれも久間元死刑囚の車を指していた。
一審福岡地裁は「犯人であることは合理的な疑いを超えて認定できる」と死刑を言い渡した。当時は画期的とされたものの、精度が低く、後に足利事件などの冤罪(えんざい)につながった旧式のDNA型鑑定も判決を支えた。〇六年十月、刑は最高裁で確定した。
飯塚市から約二十キロ離れた現場の山間部は、狭い国道が山を縫うように走る。記者が車で現場を通ったが、カーブに次ぐカーブで前方から目が離せない。仮に不審な車が止まっていたとしても、細かく観察できる自信はなかった。
「取り返しがつかんなと思った」。一審から弁護人を務める岩田務弁護士(73)が、執行の日を振り返る。
当時、死刑は確定から執行まで五、六年かかるのが一般的で、約二年で執行されるのは予想外だった。DNA型鑑定に誤りがあることを示そうと、再審請求に必要な新証拠を探している最中だった。
結局、再審請求は刑の執行から一年後の〇九年に申し立てた。福岡地裁福岡高裁とも再審開始を認めず、弁護団は今年二月、最高裁に特別抗告している。
久間元死刑囚の刑が執行されてから今年で十年。女児たちの通った小学校は今春、廃校になった。女児の捜索に加わった近所の男性(82)は「結局、何があったのかは誰にも分からん」。久間元死刑囚の妻は事件後も引っ越すことなく、今も当時の家で暮らす。

<真実有れば、自信を持って闘えるのが強み><冤罪を雪(そそ)ぐことができずに残りの生涯を屈辱に苦しんで生きることになったら、その方が辛(つら)いのです>
久間元死刑囚が妻に宛てた手紙からは、自身の疑いを晴らしたい思いがにじむ。久間元死刑囚がこの言葉を妻に直接伝える機会は、もう訪れない。
 (この連載は、奥村圭吾、蜘手美鶴が担当しました)

<死刑を考える>(中) 〜囚人とその家族〜 - 東京新聞(2018年12月28日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018122802000173.html
https://megalodon.jp/2018-1228-1022-37/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018122802000173.html

十月二日発足の第四次安倍改造内閣の法相ポストに、オウム真理教元幹部十三人の死刑執行を命じた上川陽子氏の名前はなかった。後任の法相となったのが元検察官の山下貴司氏。就任後の記者会見で「死刑もやむを得ない」と述べていた。
東京拘置所に収監中の伊藤玲雄(れお)死刑囚(44)は翌三日、こんな手紙をしたためている。<根っからの検事畑の人種で、どうにもならないのか。逆に、エリートとしての法や権力への節度が期待できるのか><死刑行政にどの程度影響があるのかも判断がつかない>−。
あいさつもそこそこに、新法相の死刑へのスタンスを探る文言が並んでいた。手紙を受け取った大河内秀明弁護士(76)は「なんとか死刑を回避したい」という強い焦りを感じ取った。
伊藤死刑囚は二〇〇四年に東京都内で起きた架空請求詐欺グループの仲間割れ事件で、四人を殺害したとして殺人罪などに問われ、一三年に死刑が確定した。
度重なる手紙からは<一刻も早い再審請求を><危機感をもって捉えていかないと、取り返しがつかないことになる>と刑執行を何とか回避したい思いが透ける。一五年一月、請求していた恩赦も「不相当」に。今は、明日が最期かも、とおびえる生活を送る。
大河内弁護士は「本人は『自分の意志が弱く及んでしまった犯行。筆舌に尽くせないような悔恨が残り、つぐなっても、つぐないきれない』と深く反省している。それでも生きたいという思いは消せないのだろう」と心情をおもんぱかる。
だが、事件で息子を殺された東京都杉並区の無職山口斌郎(しげお)さん(75)は「命で罪を償うのは当然。生きているうちに執行してもらい、息子に報告したい」と切り捨てた。
東京拘置所には、大河内弁護士が弁護人を務める死刑囚がもう一人いる。一九八八年、横浜市鶴見区で金融業の夫婦を殺害し、現金を奪ったとされる高橋和利死刑囚(84)。「死ぬのは怖くない。でも汚名を着せられたまま死ぬのは無念」が、支援者の岩生美鈴さん(58)らへの口癖だ。
捜査段階で「ここで仮に認めても、やってないのなら裁判で無罪になる」と迫られ自白。公判では否認に転じ、今は再審請求審で争う。

<面会ありがとう。遠かったでしょう><足や緑内障の具合はどう>。妻の京子さん(84)に宛てた手紙には、相手の身を案じる言葉ばかりが並ぶ。
三十代で結婚。訳があって、京子さんのおい二人を家族同然に育て上げた。捨て犬を動物病院に連れて行ったこともあった。京子さんは「生き物の命を大切にする人。人を殺すような人間ではない」と信じる。
事件後、京子さんの周りからは人がいなくなった。同じ趣味の友だちも、お金を貸してあげた知人も。隣家から「のぞいたでしょ」と言いがかりをつけられたこともあった。
長年連れ添った夫と離れ離れになって三十年余り。「いつ執行があってもおかしくない」と覚悟しつつ、ふいに不安が強まることもある。「もしかしたら明日かも」と。

<死刑を考える>(上) 〜オウム事件より〜 - 東京新聞(2018年12月27日)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018122702000137.html
https://megalodon.jp/2018-1227-0932-58/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018122702000137.html

今年七月、オウム真理教の死刑囚十三人全員の刑が執行された。世界で死刑廃止の流れが進む中、大量執行は国内外に大きな衝撃を与えた。だが、国内ではその後、死刑制度の存廃を巡る大きな議論にはつながっていない。このままでいいのか。関係者を訪ね歩き、考えた。
数十年前の冬の朝、静まり返った東京拘置所の刑場。刑務官が、目隠しされた男の首に太いロープをかけた。幹部職員が手を上げたのを合図に、別室の刑務官三人が三つのレバーを同時に引く。「バーンッ」。男の体重を支えていた一メートル四方の踏み板がはじけるように開き、体が床下に消えた。
落下の反動で、ロープが振り子のように大きく揺れる。執行に立ち会っていた元刑務官の野口善国弁護士は、両手でロープを固く握り、動きを止めた。床下をのぞくと、医務官が男の胸に聴診器を当てていた。
野口弁護士は「心臓がドクン、ドクンと動いていた。今ならまだ助かると思った」と振り返る。人の命を奪った強盗殺人犯の最期。「正義の実現とはいえ、人が人を殺す現場だった」。その音と光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「この日、この時が来ました。長い道のりだったけれど…」。オウム真理教元代表麻原彰晃元死刑囚=執行時(63)、本名・松本智津夫=の刑が執行された今年七月六日、静岡県掛川市の小林房枝さん(76)が日記にこう記した。一九九四年六月の松本サリン事件で次男豊さん=当時(23)=を奪われた。
一貫して求めてきた死刑。「何の罪もない息子が殺された。死刑で責任を取らせたいと願うのは、遺族として当然です。できることなら、刑場で執行のボタンを押したいくらいだった」と死刑存続を強く願う。
同事件で長男の友視さん=当時(26)=を亡くした千葉県南房総市の伊藤洋子さん(78)も、早期の執行を望んできた。執行後は報道各社の取材に「一つの区切りがついた。ほっとした」と繰り返した。
だが、月日が過ぎ、自分にそう言い聞かせたかっただけなのかもしれない、と思うようにもなった。「死刑で息子が生き返るわけではなく、悲しみや苦しみも全く消えなかった」と、別の思いも交錯する。
八九年十一月の弁護士一家殺人事件で、同僚の坂本堤さん=当時(33)=を殺害された岡田尚弁護士はもともと、死刑反対の立場だった。しかし事件後、「安易に反対と言うのが正しいのか」と自問自答を繰り返すようになった。
当時、検事から被害者側の関係者として取り調べを受けたことがある。供述調書に押印する段階で、「当然、(求めるのは)極刑でよろしいか」と問われ、返答に詰まった。考えた末、「厳罰で」と逃げた。
「自分が人権派弁護士のファッションとして、死刑反対を唱えていただけだと感じ、ショックだった」。その後、死刑についての議論を避けるようになった。
死刑制度への態度が固まるきっかけは、皮肉にも、同僚をあやめたオウム元幹部たちの大量執行だった。岡田弁護士は「国家が十三人もの命を奪い去った。目が覚めた。執行後も心は晴れない。やはり死刑は野蛮な行為だ」と語り、こう続ける。
「事件で被害者の命が奪われたが、死刑も命を取るという意味では全く同じ。違うのは、その主体が国家だということです」 (この連載は、奥村圭吾、蜘手美鶴が担当します)

木村草太の憲法の新手(94)辺野古での土砂投入 国の違法行為、全国に危機 - 沖縄タイムス(2018年12月23日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/362924
https://megalodon.jp/2018-1223-0954-05/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/362924

12月14日、防衛省沖縄防衛局は、辺野古での土砂投入に着手した。土砂投入に批判の声は強く、法的にも重大な問題がある。
今年9月31日、県は辺野古埋め立てのための公有水面埋立承認処分を正式に撤回した。7月に撤回を表明した記者会見で、翁長雄志前知事が示した撤回理由は、次のようなものだ。
まず、公有水面埋立法4条1項2号は、埋立承認条件として、「環境保全及災害防止ニ付十分配慮」されたものであることを求める。これを受け、埋め立て承認には、事前に実施設計・環境保全対策の協議を行うとの留意事項が付されていた。
しかし、「沖縄防衛局は、全体の実施設計や環境保全対策を示すこともなく公有水面埋め立て工事に着工し、また、サンゴ類を事前に移植することなく工事に着工するなど、承認を得ないで環境保全図書の記載等と異なる方法で工事を実施しており、留意事項で定められた事業者の義務に違反」した。
また、C護岸(水の浸食を防ぐ工作物)の設置箇所に軟弱地盤があり倒壊の恐れがある。さらに、17年6月6日、稲田朋美防衛大臣(当時)は、国会答弁で、仮に埋め立てが完成しても、滑走路の長さの関係で、もろもろの調整が整わない限り普天間飛行場が返還されない可能性があることを認めた。
これに対し、防衛省は、行政不服審査の手続きに則り、国土交通省に撤回の効力停止を求めた。今年10月30日、石井啓一国土交通相は、普天間返還が遅れるなどの理由で、効力停止を決定した。
しかし、そもそも普天間が返還されない可能性が指摘されているのだから、撤回無効の理由は説得的でない。さらに、行政不服審査は、「国民が簡易迅速かつ公正な」不服申し立てをするための制度(行政不服審査法1条)であり、「国の機関」が「その固有の資格」において受ける処分には適用されない(同法7条2項)。この点は、著名な行政法学者たちが、「公有水面埋立法における国に対する公有水面の埋立承認制度は」「国の法令順守を信頼あるいは期待して、国に特別な法的地位を認めるもの」として、「一般私人と同様の立場で審査請求や執行停止申し立てを行うことは許されない」と強く非難する声明を出している。
このように現時点での土砂投入は違法行為だ。玉城デニー知事が、「工事の権限のない者によって違法に投入された土砂は、当然に原状回復されなければなりません」と言うのも当然だろう。
全国世論調査では、辺野古基地建設について賛否拮抗(きっこう)の状況が続いてきたが、今回の土砂投入には反対の声が強い。共同通信の15、16日の調査では、土砂投入について、支持が35・5%に対し、不支持は56・5%に上った。これまで漠然と政府方針に賛成していた人の中で、土砂投入の現場写真などを見て、何が行われようとしているのかをリアルに考える人が出てきたということだろう。
大浦湾の良好な環境や生態系の維持は、沖縄のみならず、日本全体にとっての公共的な価値がある。また、地方の意思を無視して基地建設が強行された前例を作ることは、全国の自治体にとって脅威である。
今回の土砂投入は、沖縄だけではなく、全国民にとっての危機だ。(首都大学東京教授、憲法学者

(言わねばならないこと)<特別編>特定秘密保護法きょう成立5年 「戦争する国」へ進む - 東京新聞(2018年12月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/himitsuhogo/iwaneba/list/CK2018120602000138.html
https://megalodon.jp/2018-1206-0910-06/www.tokyo-np.co.jp/article/feature/himitsuhogo/iwaneba/list/CK2018120602000138.html

◆弁護士・海渡 雄一さん
特定秘密保護法が国民の「知る権利」を侵す恐れがあると指摘されながら、成立して六日で五年となる。社会にどんな影響を与え、どんな問題点をはらんでいるのか、この法律に詳しい弁護士の海渡雄一さんに聞いた。 (聞き手・清水孝幸)
特定秘密保護法が成立した後、安全保障関連法、「共謀罪」法が次々と成立し、この五年で日本が「戦争をする国」になるための法律がフルスペックの状態で整った。
まず国家安全保障会議(NSC)設置法ができ、戦争遂行の機関を作った。秘密法が続き、戦争準備の情報を隠す制度ができた。そして、安保法で海外での武力行使に道をひらき、共謀罪法は戦時の反対運動を抑える仕組みを作った。安倍政権はこの路線を突き進み、この先には九条改憲と緊急事態条項の新設がある。
秘密法が適用された刑事事件はまだない。制定時の大きな反対運動から慎重に運用しているのだろう。だが、見方を変えれば、機密の漏えいに最高懲役十年という厳罰によって、公務員の内部告発、報道機関や市民運動の情報収集を萎縮させる効果が強く働いている結果ともいえる。
この五年で行政機関の情報公開も後退した。各省庁が独自に判断して開示していた情報がなかなか開示されなくなった。特に首相官邸が絡んだ情報になると、顕著だ。無理に理屈をつけて非公開にするので、公開の例外が拡大している。国民の知る権利が制約されている。
秘密法の問題点も放置されたままだ。もし市民が摘発され、刑事裁判が行われても、どんな情報の漏えいにかかわって罪に問われたのか、具体的に示されない。何が秘密かも秘密だ。行政が恣意(しい)的に特定秘密を指定し、政権に都合の悪い情報を隠す恐れがあるが、特定秘密は件名しか示されず、チェックできない。
米国は機密情報の管理が厳しい国だが、数年すると、多くが解除され、公開される。日本では特定秘密の解除後も公開されず、廃棄される。秘密法は廃止すべきだが、せめて一定期間後に公開させる制度を必ずつくるべきだ。

<かいど・ゆういち> 1955年生まれ。弁護士。秘密保護法対策弁護団の共同代表。著書に「秘密保護法対策マニュアル」など。

特定秘密保護法> 防衛、外交、スパイ防止、テロ防止の4分野で、国の安全保障に関する重要な情報を特定秘密に指定し、保全を図る法律。2014年12月に施行され、公務員らが外部に漏えいした場合、最高で懲役10年が科される。指定の有効期間は原則最大30年で、内閣の承認があれば延長できる。

木村草太の憲法の新手(93)秋篠宮さま異例の発言 政府は皇族と意思疎通を - 沖縄タイムス(2018年12月2日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/353193
https://megalodon.jp/2018-1202-1017-13/https://www.okinawatimes.co.jp:443/articles/-/353193

大嘗祭(だいじょうさい)について秋篠宮さまが発言し、波紋を呼んでいる。大嘗祭は、新天皇即位の際に、神々に五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る、天皇家の行事の一つだ。
今上天皇即位の際に行われた1990年の大嘗祭では、(1)政府が主催する行事ではないこと(2)宗教色の強い儀式であることから、その費用を公費負担とすべきか−が議論された。政府は、大嘗祭が、「一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式」であり、「国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられ」、「公的性格がある」として、公費である宮廷費から支出すると決定した(平成元年=1989年=12月21日 閣議口頭了解)。
2019年には、新天皇の即位があり、それに続き、大嘗祭も執り行われる予定だ。政府は、前例踏襲で、宮廷費から費用を支出することを決定した。これに対し、秋篠宮さまは、11月30日の誕生日に報道された記者会見で、大嘗祭は「皇室の行事として行われ」、かつ「宗教色が強いもの」だから「それを国費で賄うことが適当かどうか」と疑問を呈した。私は、最高裁判決の分析に照らして、この発言は、もっともだと思う。以下、解説しよう。
しばしば、大嘗祭への公費支出は、最高裁で合憲性が認められたと解説される。しかし、それは誤解だ。
前回の大嘗祭には、各地方公共団体の代表として都道府県知事が参列した。それに関して、幾つかの県で、「知事参列のための県費支出は政教分離原則に反する」として、住民訴訟が提起された。
最高裁は、確かに、知事の大嘗祭への出席は、「天皇に対する社会的儀礼を尽くす」もので合憲と判断し、訴えを退けた。しかし、大嘗祭への公費支出そのものの合憲性については判断していない。
むしろ、「大嘗祭は、天皇が皇祖及び天神地祇(ちぎ)に対して安寧と五穀豊穣等を感謝するとともに国家や国民のために安寧と五穀豊穣等を祈念する儀式であり、神道施設が設置された大嘗宮において、神道の儀式にのっとり行われた」ことから、宗教性があると判断した。明確に宗教性を認めた最高裁判決がある以上、次の大嘗祭への公費支出は、より慎重に検討すべきだったろう。
なお、秋篠宮さまの発言については、「皇族は政治的発言に慎重であるべきだ」との批判もある。しかし、そもそも憲法は、天皇は政治的権能を持たないとするだけで、皇族の政治発言を禁じているわけではない。また、秋篠宮さまは、(1)大嘗祭が「皇室の儀式」であること(2)皇族の一員としての発言であること−を強調する。
そうすると、この発言は、「違憲の疑義ある公費投入によって、儀式の正統性を傷つけたくない」という当事者としての発言であって、政治社会の一員として政府決定を批判する「政治発言」とは性質が異なる、と理解することもできよう。
とはいえ、秋篠宮さまの発言が、かなり異例な発言であることは確かだ。そうした発言をせざるを得ないところまで追い込んだのは、公費支出の決定手続きで、皇族の意思が尊重されなかったということだろう。政府は、皇族との意思疎通からやり直すべきではないか。(首都大学東京教授、憲法学者

木村草太の憲法の新手(92)判事処分の恣意性と矛盾 表現の自由に深刻な悪影響 - 沖縄タイムス(2018年11月18日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/346360
http://web.archive.org/web/20181118010356/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/346360

東京高等裁判所岡口基一判事に対する懲戒処分には、「手続き保障なく一人の裁判官を処分した」というのに止まらない問題がある。今回はこの点を検討しよう。
第一に、事実認定の恣意(しい)性。
岡口判事はツイッターに、「公園に放置されていた犬を保護し育てていたら、3か月くらい経って、もとの飼い主が名乗り出てきて、『返して下さい』え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら…、裁判の結果は…」と書いた。最高裁は、「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?」の部分は、「一般の閲覧者の普通の注意と閲覧の仕方とを基準」としたとき、岡口判事自身が「訴訟を上記飼い主が提起すること自体」を非難したものと読めると認定した。
しかし、前後の流れからすると、この文は、「返して下さい」という原告の主張に対して、「被告側は、『原告は犬の所有権を放棄したのではないか』と反論した」という事実を指摘したものと理解するのが自然だろう。また、百歩譲って、岡口判事の個人的見解を示していると理解したとしても、この文の主題は、あくまで「犬の所有権」であり、「訴訟の提起」自体の是非を論じたものではない。
このように、岡口判事のツイートを、「訴訟提起自体が不当であるとの見解を示した」と認定するのはあまりにも不自然だ。もしもこうした認定が許されるなら、一般人の発言や文書についても、その意味内容を曲解し、名誉毀損(きそん)や侮辱、著作権侵害などを認定できてしまう。これは一般市民の表現の自由への深刻な脅威だ。
第二に、補足意見の論理矛盾。 山本庸幸、林景一、宮崎裕子の三裁判官による補足意見は、岡口判事が、過去に二回、ツイッターの投稿を巡り厳重注意を受けたことを指摘した上で、過去のツイートは「本件ツイートよりも悪質」だと断じた。岡口判事の悪質性を指摘する、一見もっともらしい指摘に思えるが、よく考えてみてほしい。より悪質な過去のツイートでは「注意」がされたのみなのに、なぜ本件では「懲戒処分」という重い処分が許されるのか。これは、明らかな論理矛盾であり、今回の処分が根拠薄弱だと自白するようなものだ。
補足意見自体、この矛盾を自覚しているのか、今回の処分は、今回のツイートだけではなく、過去に問題とされた行為と「同種同様の行為を再び行ったこと」が根拠だと言い訳する。しかし、懲戒申立書が懲戒理由として指摘したのは、「犬の元所有者の感情」のみだ。それにもかかわらず、過去のツイートを考慮して処分理由とすることは、明らかな論理矛盾だ。この補足意見の公表は、裁判所に対する国民の信頼を大きく損ねるもので、不適切だろう。
三裁判官が、このような無理な補足意見を書かざるを得なかったのは、申立書の理由のみでの処分は失当だと直感したからかもしれない。その点には同情もする。しかし、もしそうであるなら、「この申立内容では、懲戒処分はできない」との反対意見を書くべきだった。
本決定の無理な事実認定は、市民の表現の自由に深刻な悪影響を与え、補足意見の矛盾は裁判所の信頼を損ねる。最高裁は猛省すべきだ。(首都大学東京教授、憲法学者