週のはじめに考える 9条という「世界遺産」 - 東京新聞(2019年12月8日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019120802000144.html
https://megalodon.jp/2019-1208-0956-07/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/editorial/CK2019120802000144.html

安倍晋三首相が改憲に向けた動きを強める中、「憲法九条は世界遺産」と訴え、九条改憲に異を唱える人がいます。自民党元幹事長の古賀誠さんです。
きょう十二月八日は、七十八年前に太平洋戦争が始まった令和最初の「開戦の日」です。
戦争の犠牲者は、この四年前に始まった日中戦争以降に戦死した軍人・軍属約二百三十万人と、米軍による空襲や広島・長崎への原爆投下、沖縄戦で亡くなった民間人約八十万人とを合わせて約三百十万人に上ります。
これは日本人だけの数です。日本が侵略した近隣諸国や交戦国の犠牲者を加えれば、その数はさらに膨れ上がります。

◆父の戦死告げる紙片
古賀さんの父も犠牲を強いられた一人です。福岡県旧瀬高町(現みやま市)で乾物店を営んでいましたが、三十三歳のとき、二度目の赤紙召集で出征しました。一九四〇(昭和十五)年生まれの古賀さんが二歳のときです。
終戦後、しばらくして白木の箱が届きます。遺骨の代わりに「昭和十九年十月三十日、フィリピン・レイテ島に没す」と記した紙が父の最期を告げていました。
生まれてまもなく父を失った古賀さんには、父の顔も、そのぬくもりも、記憶がありません。仏壇の遺影を見ても、何一つ思い出すことはなかったといいます。
物心がついたときの最初の記憶は、古賀さんと姉、二人の子どもを育てるため、行商に出て懸命に働く母の姿でした。
子どものころ、あの戦争は何だったのか、戦争が憎い、とまでは思いが至らなかったそうです。ただ母の姿を見て、同じような境遇の人を二度と生まないために何かしなければいけない、との思いを強くしていきます。そして、志したのが政治家でした。

◆母の姿に不戦を誓う
国会議員の書生や秘書を経て、衆院議員に初当選したのは八〇年の衆参同日選挙でした。古賀さん三十九歳のときです。その後、自民党内で頭角を現し、九六年十一月、第二次橋本内閣の運輸相として初入閣。党では国対委員長や幹事長などの要職を歴任します。
政界実力者として地歩を固めた古賀さんですが、戦争を繰り返してはならない、九条は守る、という政治家としての初心を忘れることはなかったといいます。
「戦争で父を亡くした遺児である私の政治目標は、日本と世界の平和の実現です。再び日本が戦争の渦に巻き込まれないようにしたい」「悲惨な歴史を繰り返さないためにも憲法の平和主義、主権在民基本的人権の尊重という崇高な精神は常に忘れてはならない」
古賀さんは党幹事長当時の二〇〇一年二月、森喜朗首相の施政方針演説に対する代表質問で、こう強調します。その後、米中枢同時テロに報復攻撃する米軍などを自衛隊が支援するテロ対策特別措置法案やイラク自衛隊を派遣するイラク復興支援特措法案の衆院採決では、直前に退席しました。
いずれも自衛隊を海外に派遣する法案です。賛成の自民党方針には反しますが、自衛隊の海外派遣を認めれば、歯止めがきかなくなる、と信念を貫いたのです。
古賀さんが政界引退した一二年に政権復帰した安倍晋三首相は、歴代内閣が違憲としてきた「集団的自衛権の行使」を一転認め、さらに自衛隊を明記する九条改憲を目指す考えを公言しています。
政界引退後の今も、古賀さんが憲法九条を守ろうと積極的に発言しているのは、そうした「安倍一強」への警鐘にも聞こえます。
改憲論議は大いにすべきだが、九条は頑として守らなければならない、自衛隊を明記する九条改憲も、今は必要ない、というのが古賀さんの立場です。
九条に込められた決意と覚悟を持てば、日本はほかの国と同じ道を歩む必要はない、だから世界遺産なのだ、これを日本の宝として後世の人たちへの贈り物として守り抜いていきたい、と。

◆若い世代に理想継ぐ
こうした思いを語り、一冊の本にまとめたのが「憲法九条は世界遺産」(かもがわ出版)です。古賀さんは、若い人にこそこの本を読んでほしいと考えています。学生ら若い世代からの講演依頼にも積極的に応じたいとも話します。
古賀さんの現職議員当時、国会には戦争体験世代も多く、九条を守る特別な努力は不要でしたが、戦争を知らない世代が国会だけでなく有権者にも増え、九条の理想を語り継ぐ必要があるからです。
古賀さんは日本遺族会会長当時の〇三年、政治の師と仰ぐ野中広務自民党幹事長とともに、父が戦死したレイテ島を訪ねました。補給を断たれ、多くの日本兵が病・餓死した異郷のジャングルで、父の存在を初めて感じたといいます。戦争の本当の怖さとともに。

 

公文書、桜も森友も加計も廃棄 保存1年未満 真相解明阻む - 東京新聞(2019年12月8日)

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少年法の適用年齢/安易な引き下げは避けたい - 河北新報オンラインニュース(2019年12月5日)

https://www.kahoku.co.jp/editorial/20191205_01.html
http://archive.today/2019.12.06-001244/https://www.kahoku.co.jp/editorial/20191205_01.html

少年法の適用年齢を20歳未満から18歳未満に引き下げるかどうか-。成年年齢を18歳とする改正民法が2022年4月に施行されるのを見据え、少年法の適用年齢引き下げについての議論が法制審議会(法制審)で進んでいる。早ければ年度内にも答申が出される見込みという。
ところが、大詰めを迎えたここにきて、少年院の元院長や家庭裁判所の元調査官などから、引き下げ反対の声が相次ぐ。少年法が果たしてきた教育的な処遇が後退する点などを危惧している。
反対の声が訴える通り、矯正教育による立ち直りを重視する現行の少年法は、一定の成果を上げている。適用年齢の引き下げは、逆に弊害をもたらす懸念が拭えない。法改正が必要な理由(立法事実)が見えず、安易な引き下げは避けるべきだろう。
現行制度では、少年事件は軽微な犯罪や非行を含め、全てを家庭裁判所が扱う。心理学などを専門とする家裁調査官が本人や家族に会い、生い立ちや家庭環境、非行の背景などを科学的に調査する。
詳細な調査を踏まえ、裁判官が少年の立ち直りに最良と考える処分を決める。少年院への送致や保護観察などの保護処分となれば、教育的な働き掛けで少年の更生と再犯防止を図っている。
現行の取り組みは評価が高く、法制審もその有効性を認識している。しかし、適用年齢引き下げは、18、19歳からこうした支援や立ち直りの機会を奪うことを意味する。
現在、家裁が扱う少年のうち、18、19歳は約5割を占める。少年法の適用外となれば、今の半数が家裁の枠組みから外され、刑事訴訟法に基づいて処分される。
さらにその多くは起訴猶予や罰金刑、もしくは執行猶予が想定される。そうなれば、反省や更生、再犯防止に向けた処遇が十分なされないまま放置することになり、再犯の恐れが高まりかねない。
このため法制審では、起訴猶予となった18、19歳の事件を家裁に送り、施設収容や保護観察などを科す「新たな処分」が検討されている。だが、それでは現行法を見直す必要性はなく、何のための法改正かとなろう。
引き下げ賛成派は法改正の理由として、18歳を成年とする改正民法との統一性を挙げる。だが、法律は目的に応じて適切な年齢を定めており、現に飲酒や喫煙、公営ギャンブルは20歳以上が維持されている。
少年非行は近年、急激に減少しており、18年は摘発者数が戦後最少を更新した。凶悪な事件も減少している。少年法の取り組みが有効に機能している証左だろう。
法制審は「年齢引き下げありき」で、逆立ちした議論に陥っていないか。少年法の理念に立ち戻って、引き下げの是非を根本的に議論する必要があるのではないか。

 

一票の不平等訴訟 民主制の命綱ゆえに - 東京新聞(2019年12月6日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019120602000167.html
https://megalodon.jp/2019-1206-0846-48/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/editorial/CK2019120602000167.html

一人一票の人と〇・三票しかない人がいる。参院選での不平等を問うた訴訟の高裁判決が出そろった。憲法の要請である、限りなき平等を追求すべきだ。
大学卒の人だけが一人で二票あれば、「不平等だ」と声が上がるはずだ。でも、英国では実際に大卒者が二票持つ時代があった。居住地の選挙区と、オックスフォード選挙区など大学選挙区でそれぞれ投票できた。
「優秀な船長は常に正しい港へと運んでくれる」-。十九世紀の英国の哲学者J・S・ミルは知性と教育水準が高い人の意見が影響力を増すように、投票権も複数票持つべきだと考えていた。

◆歴史は「平等」へ進む
古代ギリシャアリストテレスも肉体労働者は政治に参加すべきでないと考えた。自分の生活で精一杯(せいいっぱい)で「公共善」を考える余裕がないと…。むろん現代では差別主義のレッテルを貼られる。
女性の参政権もそうだ。十九世紀末のニュージーランドが最初で、英国やドイツなど西欧で広がったのは第一次大戦時ごろ。日本では第二次大戦後だ。
選挙制度は時代とともに変化する。かつ平等の方向に進むのが、歴史の教えだ。では、住む地域で不平等ができる場合はどうか。この訴訟が投げかけるテーマである。七月の参院選では有権者数が最少の福井選挙区と最多の宮城選挙区の格差が三・〇〇倍だった。
二十世紀に実現した普通選挙の原理は、成人であれば同じ一票の重みを持ち、民主主義の実現へと動くことである。民主主義を名乗るなら、同じ投票価値でなければならないはずだ。
米国では一九八三年に連邦最高裁が下院議員選挙で、ある州の一・〇〇七倍の格差さえ違憲無効の判決を出したほどである。

改憲発議にも影響が
法の下の平等」の人権論から、近年では統治論から一人一票が論じられる。こんな論理だ。
憲法前文は「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…」で始まる。正当な選挙でなく、いびつな選挙であれば、憲法五六条に定めた国会での衆参両議院の議決もいびつになる。有権者の少数派が議席の多数派になる「少数決」になっているなら、もはや民主主義とは呼べないからである。
今回の参院選の選挙区に当てはめてみる。人口が最少の選挙区から順番に議員を足し算する。議員数が過半数に達するのは人口40・8%のときだ。約40%が過半数の議員を選出しているのと等しい。少数決の世界でないか。
確かに参院では「合区」を採り入れ、不平等の解消に向けて動いてはいる。三・〇八倍の格差があった二〇一六年の参院選最高裁が「合憲」としたのも、その評価の表れだ。同時に「制度の抜本見直しをし、必ず結論を得る」との国会の約束を信じたからである。
今回の訴訟では「合憲」判決が十四件、「違憲状態」が二件だった。抜本改正は実っていないが、「途上段階」とみるか、「未達成」とみるかの違いであろう。
だが、差し迫った状況が頭をもたげている。憲法改正問題だ。首相の悲願であり、改憲を呼び掛ける状況である。むろん改憲発議には衆参ともに「三分の二」の賛成が必要になる。
一票の不平等は「三分の二」ラインに少なからず影響を及ぼしうる。不平等の存在が正しい議席数に結びつかないからだ。制度のゆがみが生んだ賛成票で三分の二に到達すれば、民意と乖離(かいり)してしまう。主権者の望まない改憲発議となってはいけない。
現在、衆院比例代表は十一のブロック制である。仮に参院がこのブロック制を採用すれば、人口の48・2%が過半数の議員を選ぶことになる。新方式を導入する衆院小選挙区とほぼ同じ水準まで縮まる。踏み切ってはどうか。
学界では一人一票、つまり人口比例説が有力である。「選挙権が憲法の基本である民主主義・立憲主義の根幹であるとすれば、その侵害、不平等はおよそ許されず、本来、一人一票が基本である。これが現在、圧倒的に有力である」-と横浜国立大の君塚正臣教授は論文で記している。

◆議員は「全国民の代表」
「地方の声が反映されにくい」との意見もあるが、国会議員は「地方の代表」ではなく、「全国民の代表」と憲法で定める。参院の格差が衆院より大きくていいはずもない。最高裁は広い裁量権を国会に認めるが、参院の抜本改正は急ぐべきだ。
選挙こそ民主制の命綱である。参院衆院とともに正しい民意を国政に反映せねばならない。それが一人一票の世界だ。戦後日本の岐路に立つ今こそ、その実現が求められていよう。

 

中村医師の銃撃死 命尊ぶ信念引き継ぎたい - 毎日新聞(2019年12月6日)

https://mainichi.jp/articles/20191206/ddm/005/070/021000c
http://web.archive.org/save/https://mainichi.jp/articles/20191206/ddm/005/070/021000c

志半ばであったはずだ。しかし、足跡はアフガニスタンの大地に深く刻み込まれている。
混乱が続くアフガンで長年にわたり人道支援に携わってきたNGO「ペシャワール会」の医師、中村哲さんが、現地で武装集団に銃撃され亡くなった。
並外れた信念と行動の人だった。
パキスタンで始めた医療支援をきっかけに、アフガンに軸足を移していった。アフガンは2000年に大干ばつに見舞われ、飢えと渇きが広がった。命を救うには清潔な水と食料が必要だった。
医療の枠を超え、井戸や農業用水路の建設に取り組んできた。掘った井戸は1600本、1万6500ヘクタールを沃野(よくや)に変えた。土木は独学だ。
アフガンの若者が武装勢力に加わる背景には、貧困がある。干ばつと戦火で荒廃した農業の再生による貧困解消が、負の連鎖を断ち切るという確信があった。
安倍晋三首相は「命がけでさまざまな業績を上げられた。本当にショック」と悼んだ。
しかし、首相が14年に集団的自衛権行使を巡り、海外NGOのための自衛隊任務拡大に言及した際、中村さんは「不必要な敵を作らないことこそ内閣の責任」とクギを刺した。武力による紛争解決に異議を唱えていた。
アフガンは治安の悪化に歯止めがかからない。01年の米同時多発テロ後、米軍とタリバンなど反政府武装勢力との戦闘が続く。
国連によると、昨年だけでも3804人の民間人が犠牲になった。人道援助団体も攻撃対象になり、今年1~8月で27人が死亡した。
治安悪化を理由に援助は先細る。銃撃事件を受け、さらに及び腰にならないか心配だ。両国が協力して事実関係解明に努めてほしい。
ペシャワール会は活動を継続する方針だ。国際社会はアフガンを見捨てずに、志を引き継ぐ責任がある。
訃報を受けてアフガンでも悲しみの声が広がっている。文化や伝統を尊重し、地域に根ざした支援で信頼を得てきたことの表れだろう。
中村さんはかつて、人々との相互信頼が武器よりも大事だと語っていた。その思いをいま一度、かみしめたい。

 

(余録) 江戸川柳に「かやば町手本読み読み舟にのり」と… - 毎日新聞(2019年12月6日)

https://mainichi.jp/articles/20191206/ddm/001/070/084000c
http://web.archive.org/web/20191206002615/https://mainichi.jp/articles/20191206/ddm/001/070/084000c

江戸川柳に「かやば町手本読み読み舟にのり」とある。江戸・茅場町寺子屋に渡し舟で通う子どもの様子で、読んでいた手本とは「往来物(おうらいもの)」と呼ばれた教科書だ。進学のない時代にずいぶんと勉強熱心である。
「教育は欧州の文明国以上に行き渡っている。アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対し、日本では男も女もみな読み書きできる」。これはトロイアを発見した考古学者、シュリーマンの日本観察である。
「みな読み書き」は言い過ぎにせよ、幕末や明治に来日した外国人はその故国と比べて日本の庶民、とくに女性が本を読む姿に本当に驚いている。歴史的には折り紙つきの日本人の「読む力」だが、その急落を伝える試験結果である。
79カ国・地域の15歳を対象に3年ごとに行われる国際的な学習到達度調査(PISA)で、昨年の読解力の成績が前回の8位から15位へと低下した。科学や数学の応用力の成績が上位に踏みとどまった中での際だった学力後退という。
「テスト結果に一喜一憂(いっきいちゆう)するな」と言いたいところだが、この成績低下、思い当たるふしがあるのがつらい。何しろ本を読まない、スマホに没頭(ぼっとう)する、長文を読んで考える習慣がない……止まらない活字離れを指摘する専門家が多い。
以前はゆとり教育からの路線転換をもたらしたPISAのデータだが、読解力はV字回復の後に再び低落した。川柳子や幕末の外国人を驚かせたご先祖たちに教えてもらいたくなる「楽しく読む力」である。

 

中村医師の死 現場主義を忘れまい - 朝日新聞(2019年12月6日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S14284284.html
https://megalodon.jp/2019-1206-0748-19/https://www.asahi.com:443/articles/DA3S14284284.html

現場に徹底してこだわり、現地の人々に寄り添う姿勢を貫いた。それなのに……。理不尽さに言葉もない。
30年以上にわたり、アフガニスタンで復興支援に携わった中村哲(てつ)さん(73)が亡くなった。灌漑(かんがい)工事の現場に赴く途中の車が何者かに銃撃された。
「あと20年は活動を続ける」と周囲に話していたという。その志を打ち砕いた凶行に怒りを覚える。ともに命を落としたアフガニスタン人の警備員ら5人にも、哀悼の意を表したい。
医師である中村さんが農業支援に取り組んだのは、00年にアフガニスタンで起きた大干ばつを目にしたのがきっかけだ。薬があっても、水と食糧がなければ命を救えない。その無力感から、土木を独学した。
心がけたのは現地の人と同じ目の高さで見て、考え、行動することだ。できるだけ地元の素材を利用し、地元のやり方で、地元の人の力を活用した。
外国からの支援者が受け入れられる鍵は「その地の慣習や文化に偏見なく接すること」「自分の物差しを一時捨てること」と話していた。忘れてはならない言葉だ。
中村さんが現地代表を務めるNGOぺシャワール会は、約1600本の井戸を掘り、用水路を引いて、1万6500ヘクタールの農地をよみがえらせた。東京の山手線の内側の面積の2・6倍にあたる。ふるさとに帰還した難民は推定で15万人にのぼる。
だが、アフガニスタンの治安は依然として回復の兆しが見えない。反政府武装組織タリバーンや過激派組織「イスラム国」が根を張り、政府に打撃を与える目的で、国際援助機関やNGOを標的にし続けている。
ぺシャワール会も、08年に伊藤和也さん(当時31)が殺害され、活動の見直しを余儀なくされた。大半の診療所を閉め、日本人メンバーは引き揚げた。それでも中村さんは現地に残り、用水路の建設を続けた。
「現地の人々の命を守る活動をしているからこそ守ってもらえる」との信念を貫いた。それを無謀というのは当たるまい。
人道支援においては、政府や国際機関だけでなく、NGOの役割がますます重要になっている。治安の悪い地域にこそ、最も支援を必要とする人がいる。そのことを忘れてはならない。十分な安全対策を講じたうえで、現地の声に耳を傾け、国連などと連携して活動することの意義は大きい。
「私たちは誰も行かないところに行く」。この中村さんの言葉を胸に、ぺシャワール会は今後も活動を続けるという。
中村さんが砂漠から変えた緑の風景が続くことを祈りたい。

 

中村哲さん銃撃死 非暴力の実践継承したい - 琉球新報(2019年12月6日)

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1037619.html
https://megalodon.jp/2019-1206-0920-26/https://ryukyushimpo.jp:443/editorial/entry-1037619.html

アフガニスタンの復興支援に取り組んできた非政府組織「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さんが、現地で武装した集団に銃撃され、亡くなった。誰よりも非暴力を貫き、アフガンの平和構築に尽くしていただけに、志半ばで凶弾に倒れたことは無念でならない。
中村さんは戦乱や貧困に苦しむアフガニスタンの人々のため、危険を覚悟で長年にわたり紛争地に根を張ってきた。「誰も行かないところに行く、他人のやりたがらないことをやる」という信念で、医療活動にとどまらず井戸を掘り、砂漠に緑を取り戻すため農業用水路を開いた。
アフガンの自立を手助けし、人々が貧しさから抜け出して武器を捨て、平和な営みが訪れることを信じた。国家や民族、宗教に関わりなく罪のない人たちに手を差し伸べる人道主義に基づいた実践は、日本人が世界に誇る民生支援の姿を示してくれた。
沖縄が目指す平和の在り方でも模範となった。2002年に県が創設した沖縄平和賞の最初の受賞者がペシャワール会だった。沖縄戦の犠牲となり、戦後も広大な米軍基地が存在する沖縄の苦悩や矛盾に中村さんは「全アジア世界の縮図」と思いを寄せた。沖縄の人々もまた、「非暴力と無私の奉仕」に共鳴した。
授賞式で中村さんは「私たちの活動を非暴力による平和の貢献として沖縄県民が認めてくれたことは特別の意味がある」と喜びをかみしめた。創設の意義にふさわしい受賞者であり、その活動を顕彰できたことは県民の誇りだ。
今年10月にアフガン政府から「最大の英雄」として名誉市民権が授与されたばかりだった。現地に尽くし、尊敬を集めた中村さんが、なぜ襲撃の対象となったのか。不条理な暴力に怒りを覚える。
それと同時に、米国の武力行使に追随する日本政府の姿勢が、海外の紛争地で活動する日本人の安全を脅かしていることを危惧する。
2001年の米中枢同時テロへの報復で米国はタリバンが拠点とするアフガンに空爆を開始し、日本も支持を表明した。米軍がイラクに侵攻した翌04年には、南部サマワ陸上自衛隊を派遣した。
集団的自衛権の行使を可能にした15年の安全保障関連法の成立を巡って、中村さんは「ほかの国と違い、日本は戦争をしないと信じられてきたから、われわれは守られ、活動を続けることができた」と警鐘を鳴らしていた。
武器輸出の容認や9条改憲の動きが強まる中で、日本は中立だと諸外国に主張することが難しくなっている。軍事的な対米追従の流れに、辺野古の新基地建設もある。
中村さんが遺(のこ)した非暴力の実践を受け継ぐとともに、憲法が掲げる平和主義の重みをかみしめたい。ペシャワール会の活動に敬意を表しつつ、多くの県民と共に中村さんのご冥福を心からお祈りする。

 

中村哲さん死亡 憲法の理念を体現した - 東京新聞(2019年12月5日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019120502000166.html
https://megalodon.jp/2019-1205-0838-58/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/editorial/CK2019120502000166.html

平和憲法のもとでの日本の国際貢献のありようを体現した人だった。アフガニスタンで長年、人道支援に取り組んだ医師中村哲さんが現地で襲撃され死亡した。志半ばの死を深く悼む。
紛争地アフガニスタンでの三十年近くに及ぶ活動の中で、戦争放棄憲法九条の重みを感じていた人だった。軍事に頼らない日本の戦後復興は現地では好意を持って受け止められていたという。
政府が人道復興支援を名目に、自衛隊を派遣するためのイラク特措法を成立させた後は、活動用車両から日の丸を取り外した。米国を支援したことで、テロの標的になるという判断だった。現地での活動は続けた。「活動できるのは、日本の軍人が戦闘に参加しないから。九条はまだ辛うじて力を放ち、自分を守ってくれている」。二〇一三年、本紙の取材にそう語っている。
その後も集団的自衛権の行使容認や安保法制など、憲法の理念をないがしろにして自衛隊の海外派遣を拡大しようとする政府の姿勢を苦々しい思いで見つめていた。
安倍晋三首相が掲げた「積極的平和主義」を「言葉だけで、平和の反対だと思う」と批判していた中村さんは、真の平和につながる道は「日常の中で、目の前の一人を救うことの積み重ね」と考えていた。
ハンセン病患者などの治療のため一九八四年にパキスタン入りし、九一年からアフガニスタンでも活動を始めた。「対テロ戦争」を名目とした米英軍の空爆武装勢力の衝突など戦火は絶えず、大干ばつも地域を襲う。中村さんの目の前には常に不条理な死と苦しむ人々がいた。
二〇一八年には、アフガニスタンから、日本の民間人としては異例の勲章を受けた。緑化のための用水路建設や、長年の医療活動が高く評価された。国連難民高等弁務官として難民支援に貢献し、先日亡くなった緒方貞子さんとともに、日本が目指すべき国際貢献の姿として、その光を長く記憶にとどめたい。
今、政府は中東海域への自衛隊派遣の年内決定を目指している。米国が主導する「有志連合」への参加は見送ったものの、派遣の必要性や根拠に乏しい。米軍などの軍事行動と一体化していると見られる懸念は消えない。
軍事的貢献に傾いていく今の姿を認めてしまってよいのか。中村さんの志を無駄にしないためにも、立ち止まって考えたい。